Amazon プライムビデオでは、SafariではHDCPチェックがあるがChromeではない。

Mac をテレビに接続して Amazon プライムビデオを見る場合、Safariを使うかChromeを使うかによって、HDCP関連の挙動に違いがあるようです。

Safariでアクセスした場合、そのディスプレイがHDCPに対応していない場合、それを示すメッセージが表示され、ビデオを視聴することができないようです。

Chromeの場合、そのようなメッセージは表示されず、そのままビデオを見ることができます。

HDCPと言うのは筆者もよくわからないまま書いておりますがまあコンテンツ保護の規格でしょう。

なおChromeではマウスポインタが隠れてしまうというバグのような挙動があります。

なお、Firefoxではどちらの問題もありませんでした。

Macのインターネット共有でできること

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二台のMacBookMacBook Air Mid 2012 および MacBook 2015) を使い、インターネット共有で何ができるかを確認しました。

MacBook Airを、通常通りWi-Fi経由でインターネットに接続させておきます。この状態で、同MacBook Airのシステム設定画面から、インターネット共有を有効にし、Bluetooth PAN でインターネット接続を共有するように設定します。なお、 Bluetooth PAN とは何か、筆者も分かっておりませんので、誰か教えてください。

この状態で、もう一台のMacBookMacBook 2015)のWi-Fiをオフにします。この時点で、インターネットに繋がっていない状態になります。

ここから、MacBook の設定画面を開き、Bluetooth 設定画面から、MacBook Airに接続します。

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この状態で、何Wi-Fiがオフになっている MacBookでなにができるかを確認しました。

できました:

  • サファリでウェブの閲覧。この記事もWi-Fiをオフにした状態で更新しています。
  • iCloudの同期。インターネットには繋がっているので、当然と言えば当然ですね。
  • ファイル共有。Wi-Fiで繋がっている時と同じように、MacBook Air上の共有フォルダにアクセスできました。
  • Handoff。少し意外でしたが、双方向可能でした。

微妙:

  • 画面共有。MacBook AirMacBookからアクセスすることは一応できます。ただし、Bluetoothで繋がっているからWi-Fiは関係ないかと思いきや、MacBook AirWi-Fiを切り替えると、一度切断されます。その状態から再接続しようとすると、何度も接続に失敗しました。ファイルにはアクセスできているのにも関わらずです。不思議なことに、サファリでページを更新してやると、画面共有もできるようになりました。これはたまたまなのか、それとも、実際にインターネットから何かのデータをダウンロードすることがトリガーになっているのか判然としません。
  • Time Machineでのバックアップ。一応ドライブは認識しているようですが、実際のバックアップになると、「準備中」のまま延々と続き、なかなか始まりません。一晩おけば始まるかもしれませんが、そこまでしたくないのでこの記事を書き終わったらやめようと思います。

できませんでした:

  • 意外なことに、AirDrop が使えません。Handoff が使えるのだから使えても良さそうですが、どちらの方向からもダメでした。

Bluetooth経由のインターネットはどのくらい遅いのか

めちゃめちゃ遅いです。しかしこのくらいの速度でもブログくらいなら困らないということがよくわかります。

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iOSデバイスではJavaScriptを切った方がいい

これは本当です。

試してみればわかりますが、JavaScript を無効にするだけで、無駄な広告が表示されなくなり、ページの表示は早くなり、デバイスへの負荷も減ります。

これは当たり前のことで、しかし、実際にウェブサイトを使うことを考えると、利便性や機能性の面から、難しいところがあったと思います。

しかし、昨今ではiOSバイスでは、アプリが用意されていることが多いので、JavaScript が必要で、かつアプリが利用できないということは非常に少ないです。

万が一何かのサイトでJavaScriptが必要であったとしても、有効無効を切り替えるのは簡単です。普段はオフにしていて大丈夫なはずです。

JavaScriptを無効にしただけで、iOSが快適になります。マジでオススメです。

日本語のアクセント型は三種類

「平坦型」「頭高型」「中高型」「尾行型」なんていう分類があるんですが、これはちょっとアホっぽいですね。

まず、「平坦型」というのは、アクセント核がない単語のことを指しています。「大変な」というときの「大変」などがこれに当たります。

しかし、「頭高型」「中高型」「尾行型」というのは不要な分類ですね。これらは「有核型」とまとめてしまうべきでしょう。日本語の単語は3モーラよりも長いものもあるのですから、アクセントの位置を示すのであれば3分類じゃたりません。有核型の単語については、アクセントがどの位置にあるのかをそれぞれ具体的に示す必要があり、そうでなければ分類は不要です。

というわけで「平坦型」と「有核型」の二種類があるいということになるのですが、三種類というのはどういうことかというと、付属語のアクセント型があるわけです。

付属語は、直前の語が平坦型の時は第1モーラにアクセント核をもち、そうでなければ無アクセントになります。これは「潜伏核型」あるいは「潜在核型」のように呼ぶことができると思います。特定の条件下においてのみ核が顕在化するので。

そういうわけで「平坦型」「有核型」「潜在核形」の3つというわけです。名前スキームを揃えるために「平坦型」は「無核形」の方がいいかなという気もします。

潜在核型は付属語のアクセント型なのですが、一般に自立語であるはずの名詞のうち、「私、黄色いのが良い」という時の「の」だけが「潜在核型」です。

この「の」を付属語とするか自立語とするかは、微妙なところだと思います。学校文法では「準体助詞」という名前を与えられ、付属語扱いになっています。

いっそ、接尾辞という扱いでも良いような気がしてきましたが、用言について引数もまとめて名詞「節」を作ってしまう接尾辞というのも少しイレギュラーな感じがして気持ちが良くないです。その接尾辞のついた用言、例えば「餃子を作るのは止めにしよう」という時の「の」を動詞「作る」の接尾辞だとすると、「作るの」という一個の単語があるということになりますが、「作るの」の品詞はなんなんだという問題が生じます。直感では名詞ですが、「餃子を作るの」が一つの名詞節になるわけで、そうすると、「名詞がヲ核の引数を取って名詞節を作っている」という通常ありえない現象が観測されていることになってしまいます。もっとも、動詞の活用形は福祉だったり接続詞だったりといった働きをして、それらの品詞の通常の振る舞いにかかわらず、平気で引数をとるものなので、おかしくないといえばないのかもしれません。どうも名詞節を作る接尾辞というのが個人的にピンとこないだけかもしれません。

なお、名詞と解釈した場合、イレギュラー感があるのはそのアクセント型だけなので、第一感では名詞なんですが......。

とりあえずここまで思索メモです。

当時からずっと疑問に思っているプレステがらみのソニーのメディア戦略

もう今更すぎて何言ってるんだって話なんですが、いつまでたっても疑問は疑問のままなので、いつか誰かがこの記事を見つけて答えあるいはアイデアを書き込んでくれると期待して書き残しておきます。

前提

とりあえず、私の認識として、ソニーは以下の動機をもっていただだろうと想像しています。

  • 自社製品には自社メディアを使いたい
  • 自社製品に限らず、自社メディアを普及させたい

ここでいう自社メディアとは、初代プレステの時代からあり、実際に採用されたCD, プレステの3年後に発表されたメモリースティックおよびその後続規格のことをいいます。

現在の状況というと、CDは生き残っているものの、メモリースティックはSDカード陣営に完全にシェアを取られ、見る影もなくなってしまいました。

どうしてこうなってしまったのか、もっとマシなやり方があったんじゃないのか、というのが出発点です。

自社メディアが普及すると、生産コストが下がり、自社製品の原価を下げることもできますし、他者が自社メディアを採用することによってライセンス料が収入になりますから、ソニーはなんとしてでもメモリーステックをいまでいうSDカードのポジションに持って行きたかっただろうと想像しています。少なくとも、普及させる意図がなければ最初から規格化などしないでしょう。

PS2のセーブデータ保存用にメモリースティックが採用されなかったのはなぜか

PS2用のセーブデータを保存するメモリーカードは、初代プレステと同じ形で容量が拡張された専用メモリーカードでした。

PS2用のメモリーカードは8MBですが、PS2が発売された2000年当時すでに8MBのメモリースティックが発売されていました。

ということは、新たにPS2メモリーカードという規格を作らなくても、メモリースティックをそのまま使えるようにしてしまえば、一気に普及が進んだだろうと想像できます。

考えられる理由はといえば後方互換性ですが、これはPS2本体にPS1用メモリーカードが刺さるスロットを一つ用意するか、さもなくばメモリースティック用差込口に挿入できるメモリーカードアダプタを発売するかすれば済んだ話でしょう。周辺機器商法で売り上げアップも狙えたことでしょう。

PSPのソフト用に、なぜUMDなどという謎規格を採用してしまったのか

UMDは光ディスクで、携帯機に光ディスクを採用するということに当時から疑問の声が上がっていた記憶があります。ソニーとしては、MDウォークマンなどの経験があるので大したことではなかったのかもしれないですが、実際ゲームをプレイする人たちからは、ソフトによってはロードが長いなどの愚痴が溢れかえっていました。

本体重量や、バッテリー消費の面でもデメリットが大きかったことでしょう。さらには、UMDドライブがプレイ中に開いてしまい、中のディスクが飛び出すという不具合があり、ネットで散々ネタにされていました。

UMDの強みはその容量で、1枚に1.8GBものデータを記録することができました。初代プレステでは容量が足りず複数枚組になることもありましたから、その反省かもしれませんが、果たしてそれほどの容量を必要とするゲームがどれだけあったのか。256MBにも満たないゲームが多数あったことを記憶していますし、2枚組になったという話も聞きませんでした。(あったんでしょうか?)

UMDではなく、PSP発売当時にすでに発売されていたメモリースティック Pro Duo を採用していたら、どうなっていたでしょうか。

PSPはセーブデータをメモリースティックに保存する仕様でしたが、そもそもゲームのROMがメモリースティックであれば、そのうちの一部を書き込み可能なセーブデータ用の領域とすることも可能だったのではないでしょうか。

容量はというと、PSPが発売された2004年にはすでに1GBの物が発売されていました。もちろん価格は高かったでしょうが、全てのゲームにこれほどの容量が必要だったわけではなく、初期に発売されたゲームの多くは256MBで足りただろうと想像できます。(ゲームの容量は初期のものは小さく、ライフサイクル後半になると大容量の大作が出て来るという傾向があると思います。)また、PSPのライフサイクル後期には、メモリースティックの値段が大幅に下がっていたことも付け加えるべきでしょう。

UMDの代わりにメモリースティックを採用していれば、PSP本体は格段に薄く、軽くすることができ、本体の製造コストも抑えることができたでしょう。

メモリースティックは大容量のものはUMDよりも高コストだったかもしれませんが、UMD自体にも開発コストがかかっているはずですし、サイズが全く違うので流通コストも違ったはずです。

もしPSPのゲームがにメモリースティックに入って売られていたら、SDカード陣営に勝ち目はなかったのでは? あるいは、そこまでではなくても、いまでも良い勝負をしていたのでは? と想像してしまいます。

なお、UMDにはゲームの他に、音楽と映像のソフトがありましたが、やはり1GBもの容量があれば足りないはずがないですし、全くどうしてUMDなどという謎規格が必要だったのか。

結び

以上、

という二つの疑問について書きました。

何か知見のある方は教えていただけると嬉しいです。

 

 

「が」と「の」が修飾節において交換可能になる理由

「が」は主語マーカーで、「の」は連体修飾節専用のコピュラです。「の」が所有マーカーではないという話を前の記事で書いたので、この前提に疑問がある方はご参照ください。

ところで、日本語の文では、「が」と「の」が交換可能になる文があります。次のような文です。

  • キモくて金のあるおっさん
  • キモくて金があるおっさん

この二つの分は、「が」と「の」の違いがありますが、意味は同じです。なぜ、主語マーカーである「が」と、全く働きの違う「の」が交換可能になるのでしょうか?

「が」と「の」が単に入れ替わっているわけではない

以下の構文木をご覧ください。なお、「キモくて」の部分は割愛してあります。

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それぞれ違う構文木になっています。つまり、単純に「が」と「の」が入れ替わっているわけではなく、文の構造が違うので、それに応じて「が」と「の」が選ばれているというわけです。

さて、それぞれどういう意味なのか、メタ言語で書いて行きたいと思います。ラムダ表現を使いたいのですが、難しいので諦めました。

「金のあるおっさん」

まずは、「金のあるおっさん」から。

まず、名詞「おっさん」ですが、具体的に誰なのかということが明らかになっていませんので、ここでは「おっさんX」とおいておきます。

  • おっさん = おっさんX

次に、動詞「ある」です。これは動詞なので、真偽値がある単語になります。「ある」なら真、「ない」なら偽とかそういうことです。「ある」といっても「何がある」と真なのか明らかになっていませんので、仮に「Yがあるなら真」とします。また、「ある」は、「ここにリンゴがある」というように、「どこに」という引数をとる動詞ですので、「YがZにあるなら真」とします。

  • ある = YがZにあるなら真

構文木に従い、この二つを組み合わせて「あるおっさん」の値を決定します。

ここで注意しなければならないのは、「ある」は修飾説だと言うことです。例えば、名詞Aを修飾する修飾節Bなら、「Bが真であるようなA」と言う意味です。

したがって、次のような意味になります。

  • 修飾説 = Bが真であるようなA

これに「YがZにあるなら真」を代入します。この時、Aは「もの」の変数で、「B」が真偽値の変数ですから、同じく真偽値である「YがZにあるなら真」はBにしか代入できないことがわかります。

したがって、以下のようになります。

  • ある(修飾節) = YがZにあるようなA

そして、この修飾節が、名詞である「おっさんX」を修飾します。

  • ある(修飾節)おっさん = YがZにあるようなおっさんX

少し空きの変数が多いですが、元の文の意味を考えると、Zが意味するところは明らかです。以下のようになります。

  • ある(修飾節)おっさん = Yがそれ自身にあるようなおっさんX

やっと「あるおっさん」の意味が確定できました。

なお、このように「元の意味を考えて変数の値を確定する」という操作を今後も行いますが、これは値を完全に恣意的に決定しているわけではなく、文脈に現れている値を代入しています。この場合、すでに文脈に現れている「おっさんX」を代入し、「それ自身」と表記しています。

次に、「金の」ですが、これが少し込み入っています。前の記事で書いた通り、「の」は修飾節のコピュラで、「AのB」というとき、「Aです」が「B」を修飾しているという話でした。

なので、少し分解して、まずは「金です」の意味を決定します。

  • 金です = Dが金なら真

これは異論ないと思います。これを修飾説にしますので、先ほどの通り、この文を「Bが真であるようなA」に代入します。以下のようになります。

  • 金です(修飾節)= Dが金であるようなA

さて、この文に先ほどの「あるおっさん」つまり「Yがそれ自身にあるようなおっさんX」を代入します。繰り返しますが、修飾節「Bが真であるようなA」は、修飾される名詞を「A」に代入します。

  • 金です(修飾節)ある(修飾節)おっさん = Dが金であるような、 Yがそれ自身にあるようなおっさんX

さて、やっと文ができました。ですが、この文は少し曖昧で、まだ解釈を狭める余地が残っています。元の意味は「金を持っているおっさん」ですので、「おっさんX」が金を持っているように解釈する必要があります。また、持っているものは、「Y」と定義されています。この時、「Dが金である」と定義されていますので、 D = Y ということができます。したがって、

  • 金です(修飾節)ある(修飾節)おっさん = Yが金であるような、 Yがそれ自身にあるようなおっさんX

Yの値が不確定ですが、「Yの値が何であれ、Yがそれ自身にあり、かつYが金であるような、何らかのおっさんX」という文(名詞節)であることが読み取れます。これは「金のあるおっさん」という文の意味と一致しています。

お疲れ様でした。これで「金のあるおっさん」の意味が出来上がりました。

金があるおっさん

次に「金があるおっさん」です。これで同じ意味にたどり着くことができれば、「が」と「の」が交換可能であるという現象のメカニズムを、少なくともこの例においては解明できたことになると思います。

「おっさん」はすでに定義できていますので、「金がある」という文を定義します。

  • 金がある = 金がXにあるなら真

次にこれを(修飾節)に代入します。

  • 金がある(修飾節) = 金がXにあるようなY

これが「おっさん」を修飾します。

  • 金がある(修飾節)おっさん = 金がXにあるようなおっさんZ

前回は「おっさんX」としましたが、Xをすでに使ってしまったのでZにしました。変数名は何でもいいので同じことです。

さて、このXは、前回と同じように、「おっさんZ」を代入することができます。したがって、次のようになります。

  • 金がある(修飾節)おっさん = 金がそれ自身にあるようなおっさんZ

これで「金があるおっさん」の意味が完成です。「金のあるおっさん」よりもずいぶんシンプルに見えます。比べて見ましょう。

「金があるおっさん」と「金のあるおっさん」が等しいことを示す

先に変数を揃えます。また、番号を振ります

  1. 金がある(修飾節)おっさん = 金がそれ自身にあるようなおっさんX
  2. 金です(修飾節)ある(修飾節)おっさん = Yが金であるような、 Yがそれ自身にあるようなおっさんX

二つの式が等しいことを示すには、ある一方が真であるとき、常にもう一方が真であり、かつ、ある一方が偽であるとき常にもう一方が偽であることを示せばたります。

ここでは、「おっさんX」に代入する具体的なおっさんを想定して、この「おっさん」が「金があるおっさん」と「金のあるおっさん」の条件を満たすかどうかを考えます。

「おっさんX」に代入する具体的なおっさんは、おっさんであれば誰でもいいので、世界中の全てのおっさんを代入することができます。

この時、世界中のすべてのおっさんを「金を持っているおっさん」と「金を持っていないおっさん」のグループに分けます。

おっさんXが金を持っている場合

おっさんXが金を持っている場合は、1の条件を満たします。

次に2の条件を満たすかどうかですが、Yをどう扱うかが問題です。

Yが金であると仮定した場合

Yが金であると仮定した場合は、Yに金を代入できるので、2は次の式と等しいことになります。

  • 金です(修飾節)ある(修飾節)おっさん = 金が金であるような、 金がそれ自身にあるようなおっさんX

この時、「金が金であるような」はトートロジーなので、削除することができ、次のようになります。

  • 金です(修飾節)ある(修飾節)おっさん = 金がそれ自身にあるようなおっさんX

これは1の式と全く同一です。また、条件を満たしています。

Yが金でないと仮定した場合

Yが金でないと仮定した場合は、Yを「金でない何か」と定義し、代入します。以下のようになります。

  • 金です(修飾節)ある(修飾節)おっさん = 金でない何かが金であるような、 金でない何かがそれ自身にあるようなおっさんX

「金でない何かが金である」というのは、矛盾ですので、このような条件を満たすおっさんは存在しません。

この時、この具体的おっさんは、1の条件を満たし、2の条件を満たさない、という状況が発生しますが、このような(金でない何かが金であるような)おっさんは誰もいないので、次のことが言えます。

「世界中のすべてのおっさんについて、そのおっさんが金を持っているのならば、1の条件と2の条件を常に同時に満たす」

ここまでで、1と2は同じ条件で真になることがわかりました。

おっさんが金を持っていない場合

金を持っていない具体的おっさんについて考えます。世界中のおっさんを「金を持っている」と「金を持っていない」の2グループに分け、前者について1と2の両方が常に満たされることを確認したので、後者について1と2の両方が常に満たされない、あるいは両方が常に満たされることがわかれば、1と2は世界中のすべての具体的おっさんについて等しいことがわかります。

まず1についてですが、「金を持っていない具体的おっさん」は、1の条件と矛盾しますので、1を満たすことはありません。

2については、先ほどと同じように、Yの扱いを2つに分けて考えます。

Yが金であると仮定した場合

Yが金であると仮定した場合は、2の式は1と同一であることを既に示したので、1と同様に、「常に満たさない」ことがわかります。

Yが金でないことを仮定した場合

これについては、このような具体的おっさんが一人もいないので、結論に影響を与えませんが、一応、「常に条件を満たさない」ことがわかっています。

これらのことから、次のことが言えます

「世界中の全ておっさんについて、そのおっさんが金を持っていないのならば、1の条件と2の条件を同時に破る」

これで、「世界中のすべてのおっさんについて、1の条件を満たす時、常に2の条件を満たし、1の条件を満たさない時、常に2の条件を満たさない」ということがわかりました。

したがって、「金のあるおっさん」と「金があるおっさん」は等しいことがわかりました。