iOSデバイスではJavaScriptを切った方がいい

これは本当です。

試してみればわかりますが、JavaScript を無効にするだけで、無駄な広告が表示されなくなり、ページの表示は早くなり、デバイスへの負荷も減ります。

これは当たり前のことで、しかし、実際にウェブサイトを使うことを考えると、利便性や機能性の面から、難しいところがあったと思います。

しかし、昨今ではiOSバイスでは、アプリが用意されていることが多いので、JavaScript が必要で、かつアプリが利用できないということは非常に少ないです。

万が一何かのサイトでJavaScriptが必要であったとしても、有効無効を切り替えるのは簡単です。普段はオフにしていて大丈夫なはずです。

JavaScriptを無効にしただけで、iOSが快適になります。マジでオススメです。

日本語のアクセント型は三種類

「平坦型」「頭高型」「中高型」「尾行型」なんていう分類があるんですが、これはちょっとアホっぽいですね。

まず、「平坦型」というのは、アクセント核がない単語のことを指しています。「大変な」というときの「大変」などがこれに当たります。

しかし、「頭高型」「中高型」「尾行型」というのは不要な分類ですね。これらは「有核型」とまとめてしまうべきでしょう。日本語の単語は3モーラよりも長いものもあるのですから、アクセントの位置を示すのであれば3分類じゃたりません。有核型の単語については、アクセントがどの位置にあるのかをそれぞれ具体的に示す必要があり、そうでなければ分類は不要です。

というわけで「平坦型」と「有核型」の二種類があるいということになるのですが、三種類というのはどういうことかというと、付属語のアクセント型があるわけです。

付属語は、直前の語が平坦型の時は第1モーラにアクセント核をもち、そうでなければ無アクセントになります。これは「潜伏核型」あるいは「潜在核型」のように呼ぶことができると思います。特定の条件下においてのみ核が顕在化するので。

そういうわけで「平坦型」「有核型」「潜在核形」の3つというわけです。名前スキームを揃えるために「平坦型」は「無核形」の方がいいかなという気もします。

潜在核型は付属語のアクセント型なのですが、一般に自立語であるはずの名詞のうち、「私、黄色いのが良い」という時の「の」だけが「潜在核型」です。

この「の」を付属語とするか自立語とするかは、微妙なところだと思います。学校文法では「準体助詞」という名前を与えられ、付属語扱いになっています。

いっそ、接尾辞という扱いでも良いような気がしてきましたが、用言について引数もまとめて名詞「節」を作ってしまう接尾辞というのも少しイレギュラーな感じがして気持ちが良くないです。その接尾辞のついた用言、例えば「餃子を作るのは止めにしよう」という時の「の」を動詞「作る」の接尾辞だとすると、「作るの」という一個の単語があるということになりますが、「作るの」の品詞はなんなんだという問題が生じます。直感では名詞ですが、「餃子を作るの」が一つの名詞節になるわけで、そうすると、「名詞がヲ核の引数を取って名詞節を作っている」という通常ありえない現象が観測されていることになってしまいます。もっとも、動詞の活用形は福祉だったり接続詞だったりといった働きをして、それらの品詞の通常の振る舞いにかかわらず、平気で引数をとるものなので、おかしくないといえばないのかもしれません。どうも名詞節を作る接尾辞というのが個人的にピンとこないだけかもしれません。

なお、名詞と解釈した場合、イレギュラー感があるのはそのアクセント型だけなので、第一感では名詞なんですが......。

とりあえずここまで思索メモです。

当時からずっと疑問に思っているプレステがらみのソニーのメディア戦略

もう今更すぎて何言ってるんだって話なんですが、いつまでたっても疑問は疑問のままなので、いつか誰かがこの記事を見つけて答えあるいはアイデアを書き込んでくれると期待して書き残しておきます。

前提

とりあえず、私の認識として、ソニーは以下の動機をもっていただだろうと想像しています。

  • 自社製品には自社メディアを使いたい
  • 自社製品に限らず、自社メディアを普及させたい

ここでいう自社メディアとは、初代プレステの時代からあり、実際に採用されたCD, プレステの3年後に発表されたメモリースティックおよびその後続規格のことをいいます。

現在の状況というと、CDは生き残っているものの、メモリースティックはSDカード陣営に完全にシェアを取られ、見る影もなくなってしまいました。

どうしてこうなってしまったのか、もっとマシなやり方があったんじゃないのか、というのが出発点です。

自社メディアが普及すると、生産コストが下がり、自社製品の原価を下げることもできますし、他者が自社メディアを採用することによってライセンス料が収入になりますから、ソニーはなんとしてでもメモリーステックをいまでいうSDカードのポジションに持って行きたかっただろうと想像しています。少なくとも、普及させる意図がなければ最初から規格化などしないでしょう。

PS2のセーブデータ保存用にメモリースティックが採用されなかったのはなぜか

PS2用のセーブデータを保存するメモリーカードは、初代プレステと同じ形で容量が拡張された専用メモリーカードでした。

PS2用のメモリーカードは8MBですが、PS2が発売された2000年当時すでに8MBのメモリースティックが発売されていました。

ということは、新たにPS2メモリーカードという規格を作らなくても、メモリースティックをそのまま使えるようにしてしまえば、一気に普及が進んだだろうと想像できます。

考えられる理由はといえば後方互換性ですが、これはPS2本体にPS1用メモリーカードが刺さるスロットを一つ用意するか、さもなくばメモリースティック用差込口に挿入できるメモリーカードアダプタを発売するかすれば済んだ話でしょう。周辺機器商法で売り上げアップも狙えたことでしょう。

PSPのソフト用に、なぜUMDなどという謎規格を採用してしまったのか

UMDは光ディスクで、携帯機に光ディスクを採用するということに当時から疑問の声が上がっていた記憶があります。ソニーとしては、MDウォークマンなどの経験があるので大したことではなかったのかもしれないですが、実際ゲームをプレイする人たちからは、ソフトによってはロードが長いなどの愚痴が溢れかえっていました。

本体重量や、バッテリー消費の面でもデメリットが大きかったことでしょう。さらには、UMDドライブがプレイ中に開いてしまい、中のディスクが飛び出すという不具合があり、ネットで散々ネタにされていました。

UMDの強みはその容量で、1枚に1.8GBものデータを記録することができました。初代プレステでは容量が足りず複数枚組になることもありましたから、その反省かもしれませんが、果たしてそれほどの容量を必要とするゲームがどれだけあったのか。256MBにも満たないゲームが多数あったことを記憶していますし、2枚組になったという話も聞きませんでした。(あったんでしょうか?)

UMDではなく、PSP発売当時にすでに発売されていたメモリースティック Pro Duo を採用していたら、どうなっていたでしょうか。

PSPはセーブデータをメモリースティックに保存する仕様でしたが、そもそもゲームのROMがメモリースティックであれば、そのうちの一部を書き込み可能なセーブデータ用の領域とすることも可能だったのではないでしょうか。

容量はというと、PSPが発売された2004年にはすでに1GBの物が発売されていました。もちろん価格は高かったでしょうが、全てのゲームにこれほどの容量が必要だったわけではなく、初期に発売されたゲームの多くは256MBで足りただろうと想像できます。(ゲームの容量は初期のものは小さく、ライフサイクル後半になると大容量の大作が出て来るという傾向があると思います。)また、PSPのライフサイクル後期には、メモリースティックの値段が大幅に下がっていたことも付け加えるべきでしょう。

UMDの代わりにメモリースティックを採用していれば、PSP本体は格段に薄く、軽くすることができ、本体の製造コストも抑えることができたでしょう。

メモリースティックは大容量のものはUMDよりも高コストだったかもしれませんが、UMD自体にも開発コストがかかっているはずですし、サイズが全く違うので流通コストも違ったはずです。

もしPSPのゲームがにメモリースティックに入って売られていたら、SDカード陣営に勝ち目はなかったのでは? あるいは、そこまでではなくても、いまでも良い勝負をしていたのでは? と想像してしまいます。

なお、UMDにはゲームの他に、音楽と映像のソフトがありましたが、やはり1GBもの容量があれば足りないはずがないですし、全くどうしてUMDなどという謎規格が必要だったのか。

結び

以上、

という二つの疑問について書きました。

何か知見のある方は教えていただけると嬉しいです。

 

 

「が」と「の」が修飾節において交換可能になる理由

「が」は主語マーカーで、「の」は連体修飾節専用のコピュラです。「の」が所有マーカーではないという話を前の記事で書いたので、この前提に疑問がある方はご参照ください。

ところで、日本語の文では、「が」と「の」が交換可能になる文があります。次のような文です。

  • キモくて金のあるおっさん
  • キモくて金があるおっさん

この二つの分は、「が」と「の」の違いがありますが、意味は同じです。なぜ、主語マーカーである「が」と、全く働きの違う「の」が交換可能になるのでしょうか?

「が」と「の」が単に入れ替わっているわけではない

以下の構文木をご覧ください。なお、「キモくて」の部分は割愛してあります。

f:id:pichikupachiku:20180202090023p:plain

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それぞれ違う構文木になっています。つまり、単純に「が」と「の」が入れ替わっているわけではなく、文の構造が違うので、それに応じて「が」と「の」が選ばれているというわけです。

さて、それぞれどういう意味なのか、メタ言語で書いて行きたいと思います。ラムダ表現を使いたいのですが、難しいので諦めました。

「金のあるおっさん」

まずは、「金のあるおっさん」から。

まず、名詞「おっさん」ですが、具体的に誰なのかということが明らかになっていませんので、ここでは「おっさんX」とおいておきます。

  • おっさん = おっさんX

次に、動詞「ある」です。これは動詞なので、真偽値がある単語になります。「ある」なら真、「ない」なら偽とかそういうことです。「ある」といっても「何がある」と真なのか明らかになっていませんので、仮に「Yがあるなら真」とします。また、「ある」は、「ここにリンゴがある」というように、「どこに」という引数をとる動詞ですので、「YがZにあるなら真」とします。

  • ある = YがZにあるなら真

構文木に従い、この二つを組み合わせて「あるおっさん」の値を決定します。

ここで注意しなければならないのは、「ある」は修飾説だと言うことです。例えば、名詞Aを修飾する修飾節Bなら、「Bが真であるようなA」と言う意味です。

したがって、次のような意味になります。

  • 修飾説 = Bが真であるようなA

これに「YがZにあるなら真」を代入します。この時、Aは「もの」の変数で、「B」が真偽値の変数ですから、同じく真偽値である「YがZにあるなら真」はBにしか代入できないことがわかります。

したがって、以下のようになります。

  • ある(修飾節) = YがZにあるようなA

そして、この修飾節が、名詞である「おっさんX」を修飾します。

  • ある(修飾節)おっさん = YがZにあるようなおっさんX

少し空きの変数が多いですが、元の文の意味を考えると、Zが意味するところは明らかです。以下のようになります。

  • ある(修飾節)おっさん = Yがそれ自身にあるようなおっさんX

やっと「あるおっさん」の意味が確定できました。

なお、このように「元の意味を考えて変数の値を確定する」という操作を今後も行いますが、これは値を完全に恣意的に決定しているわけではなく、文脈に現れている値を代入しています。この場合、すでに文脈に現れている「おっさんX」を代入し、「それ自身」と表記しています。

次に、「金の」ですが、これが少し込み入っています。前の記事で書いた通り、「の」は修飾節のコピュラで、「AのB」というとき、「Aです」が「B」を修飾しているという話でした。

なので、少し分解して、まずは「金です」の意味を決定します。

  • 金です = Dが金なら真

これは異論ないと思います。これを修飾説にしますので、先ほどの通り、この文を「Bが真であるようなA」に代入します。以下のようになります。

  • 金です(修飾節)= Dが金であるようなA

さて、この文に先ほどの「あるおっさん」つまり「Yがそれ自身にあるようなおっさんX」を代入します。繰り返しますが、修飾節「Bが真であるようなA」は、修飾される名詞を「A」に代入します。

  • 金です(修飾節)ある(修飾節)おっさん = Dが金であるような、 Yがそれ自身にあるようなおっさんX

さて、やっと文ができました。ですが、この文は少し曖昧で、まだ解釈を狭める余地が残っています。元の意味は「金を持っているおっさん」ですので、「おっさんX」が金を持っているように解釈する必要があります。また、持っているものは、「Y」と定義されています。この時、「Dが金である」と定義されていますので、 D = Y ということができます。したがって、

  • 金です(修飾節)ある(修飾節)おっさん = Yが金であるような、 Yがそれ自身にあるようなおっさんX

Yの値が不確定ですが、「Yの値が何であれ、Yがそれ自身にあり、かつYが金であるような、何らかのおっさんX」という文(名詞節)であることが読み取れます。これは「金のあるおっさん」という文の意味と一致しています。

お疲れ様でした。これで「金のあるおっさん」の意味が出来上がりました。

金があるおっさん

次に「金があるおっさん」です。これで同じ意味にたどり着くことができれば、「が」と「の」が交換可能であるという現象のメカニズムを、少なくともこの例においては解明できたことになると思います。

「おっさん」はすでに定義できていますので、「金がある」という文を定義します。

  • 金がある = 金がXにあるなら真

次にこれを(修飾節)に代入します。

  • 金がある(修飾節) = 金がXにあるようなY

これが「おっさん」を修飾します。

  • 金がある(修飾節)おっさん = 金がXにあるようなおっさんZ

前回は「おっさんX」としましたが、Xをすでに使ってしまったのでZにしました。変数名は何でもいいので同じことです。

さて、このXは、前回と同じように、「おっさんZ」を代入することができます。したがって、次のようになります。

  • 金がある(修飾節)おっさん = 金がそれ自身にあるようなおっさんZ

これで「金があるおっさん」の意味が完成です。「金のあるおっさん」よりもずいぶんシンプルに見えます。比べて見ましょう。

「金があるおっさん」と「金のあるおっさん」が等しいことを示す

先に変数を揃えます。また、番号を振ります

  1. 金がある(修飾節)おっさん = 金がそれ自身にあるようなおっさんX
  2. 金です(修飾節)ある(修飾節)おっさん = Yが金であるような、 Yがそれ自身にあるようなおっさんX

二つの式が等しいことを示すには、ある一方が真であるとき、常にもう一方が真であり、かつ、ある一方が偽であるとき常にもう一方が偽であることを示せばたります。

ここでは、「おっさんX」に代入する具体的なおっさんを想定して、この「おっさん」が「金があるおっさん」と「金のあるおっさん」の条件を満たすかどうかを考えます。

「おっさんX」に代入する具体的なおっさんは、おっさんであれば誰でもいいので、世界中の全てのおっさんを代入することができます。

この時、世界中のすべてのおっさんを「金を持っているおっさん」と「金を持っていないおっさん」のグループに分けます。

おっさんXが金を持っている場合

おっさんXが金を持っている場合は、1の条件を満たします。

次に2の条件を満たすかどうかですが、Yをどう扱うかが問題です。

Yが金であると仮定した場合

Yが金であると仮定した場合は、Yに金を代入できるので、2は次の式と等しいことになります。

  • 金です(修飾節)ある(修飾節)おっさん = 金が金であるような、 金がそれ自身にあるようなおっさんX

この時、「金が金であるような」はトートロジーなので、削除することができ、次のようになります。

  • 金です(修飾節)ある(修飾節)おっさん = 金がそれ自身にあるようなおっさんX

これは1の式と全く同一です。また、条件を満たしています。

Yが金でないと仮定した場合

Yが金でないと仮定した場合は、Yを「金でない何か」と定義し、代入します。以下のようになります。

  • 金です(修飾節)ある(修飾節)おっさん = 金でない何かが金であるような、 金でない何かがそれ自身にあるようなおっさんX

「金でない何かが金である」というのは、矛盾ですので、このような条件を満たすおっさんは存在しません。

この時、この具体的おっさんは、1の条件を満たし、2の条件を満たさない、という状況が発生しますが、このような(金でない何かが金であるような)おっさんは誰もいないので、次のことが言えます。

「世界中のすべてのおっさんについて、そのおっさんが金を持っているのならば、1の条件と2の条件を常に同時に満たす」

ここまでで、1と2は同じ条件で真になることがわかりました。

おっさんが金を持っていない場合

金を持っていない具体的おっさんについて考えます。世界中のおっさんを「金を持っている」と「金を持っていない」の2グループに分け、前者について1と2の両方が常に満たされることを確認したので、後者について1と2の両方が常に満たされない、あるいは両方が常に満たされることがわかれば、1と2は世界中のすべての具体的おっさんについて等しいことがわかります。

まず1についてですが、「金を持っていない具体的おっさん」は、1の条件と矛盾しますので、1を満たすことはありません。

2については、先ほどと同じように、Yの扱いを2つに分けて考えます。

Yが金であると仮定した場合

Yが金であると仮定した場合は、2の式は1と同一であることを既に示したので、1と同様に、「常に満たさない」ことがわかります。

Yが金でないことを仮定した場合

これについては、このような具体的おっさんが一人もいないので、結論に影響を与えませんが、一応、「常に条件を満たさない」ことがわかっています。

これらのことから、次のことが言えます

「世界中の全ておっさんについて、そのおっさんが金を持っていないのならば、1の条件と2の条件を同時に破る」

これで、「世界中のすべてのおっさんについて、1の条件を満たす時、常に2の条件を満たし、1の条件を満たさない時、常に2の条件を満たさない」ということがわかりました。

したがって、「金のあるおっさん」と「金があるおっさん」は等しいことがわかりました。

「の」はコピュラであり、所有を表す助詞と考える必要はない

「私の本」などの例が亜あるので、ついうっかり「『の』は所有マーカーである」なんて言ってしまいそうになる。

そして、実際に一般的な日本語の教科書や、ウィキペディアなどのウェブ上のドキュメントにも大抵そのように書いてある。

しかし、後述するように、これを所有を表す助詞と考える必要はない。「の」は所有マーカーではなく、コピュラである、という話をこれからします。

コピュラとは

コピュラは、英語の "is" など、二つの名詞を並べてその名詞同士の関係を表現する語です。典型的にはイコールの関係か含有関係を表します。John is a man. で、「ジョンは人です」という文になりますが、この文では、コピュラ "is" は、「ジョン」が「人」と言われる集合の一員であるということを表しています。

日本語では「だ」と「です」がそれにあたると言われています。先の「ジョンは人です」というのはまんま同じですね。もうちょっと日本語っぽい例を出せば「星が綺麗ですね」などを挙げることができます。「星」と「綺麗」を結びつけて、「星」が「綺麗」という性質を備えている、あるいは、「綺麗」と言われるものの集合のメンバーの一員であるということを表現しているわけです。

なお、「綺麗です」は形容動詞の活用形であるとかいう議論はここでは扱いません。

コピュラのもう一つの特徴は、それが文において動詞の代わりをするということです。動詞は、文において、一つ以上の引数を取り、そのうち一つがある動作を行うなどと言ったことを表すと同時に、複数の引数がある場合は、引数同士の関係を表したりもします。例えば、John eats cats などですね。この動詞 "eats" は、「食べる」という動作を表していて、ここでは「ジョン」が「食べる」という動作を行うことを表現するとともに、もう一つの引数である「猫」がジョンによって食べられる存在であるということを表しています。

動詞がすでに引数同士の関係を示す機能を備えているので、さらにコピュラは不要というわけです。実際、英語でも、動詞が述語になる文ではコピュラは用いられません。

日本語ではどうかというと、同じ傾向です。「死神はりんごしか食べない」というぶんには、コピュラはありません。これが述語が名詞だと、「死神が食べるのはリンゴだけだ」となり、コピュラ「だ」があらわれます。

「の」の機能

「の」の話に戻ります。なんで「の」がコピュラだと言えるかというと、「の」がコピュラと同じように、「述語が名詞(またはそれに類する語)の時だけ現れる」という特徴があるからです。

「の」は述語を取らないだろ? という向きもあるかと思いますので、以下の例をご覧下さい。

  • 出身が東京の人
  • 身長が179センチ以上の人
  • 美人の女性秘書
  • 成績がクラスで一番の人
  • 親がアメリカ人の先輩

あえて真ん中に「名詞+の+名詞」という、従来「『の』は所有マーカーである」という誤解を生んできた例をあげておきました。

それぞれ、以下のように変換できることがわかると思います。

  • 東京から来た人
  • 身長が179センチを超えている人
  • 可愛い女性秘書
  • 成績がクラスで一番良い人
  • 親がアメリカから来た先輩

ここからわかるのは、「『の』が受けているのは単なる名詞ではなく、文である」ということと「名詞だった部分を動詞や形容詞で言い換えると、「の」が消える」ということです。

「の」が「だ」と同じ条件で消えたり現れたりすることがわかります。

また、意味を考えても、一般的に言えることは「文を受けて、修飾節を作る」程度しかしかありません。「所有」が成立しているように見える例だけを取り立てて「所有マーカーである」と考える合理性はありません。「修飾節である」という説明で全て成り立つのですから。「私の本」についても「本」を「私だ」が修飾していると考えて、全く差し支えがありません。

「の」は連体修飾節専用のコピュラである

「の」が所有マーカーであると考える特段の理由はなく、「の」が現れたり消えたりする条件は、コピュラのそれと全く同じであることがわかりました。「の」は連体修飾節専用のコピュラであると考えるべきです。

なお、同じ理由で、「『な』は連体修飾節専用のコピュラで、述語になる単語がいわゆる形容動詞語幹の時に使われる」と言えます。

外国籍の子の出生届にひらがなが使えないことを差別だと言っている人は、そもそもひらがなとカタカナを理解していないのでは?

www.j-cast.com

これです。以前こんな記事を書いたので、ちょっと見ていただだきたいんですが、

pichikupachiku.hatenablog.com

漢字とひらがなは、日本語の中で特定のシーケンスで特定の単語を表現するための文字です。

音を表現するための文字はカタカナなので、外国籍の子供の出生届に原則カタカナ使うのは何もおかしくありません。

もしひらがなを使ったところで、名前としてはカタカナで届けた場合と同じになります。音しか表現していないので。だから別にひらがなを許可してもいいと思いますけど、誰にとっても意味ないですね。だって音なんだから。

外国籍ということなので、正式な名前の登録はその国の制度に従って行うことになるため、そもそもカタカナすら必要ではありません。ローマ字だけで良いでしょうが、日本の役所で扱う上で便宜上カタカナを記載することになっているのでしょう。

繰り返しになりますが、音を表現するための文字は日本語には(ローマ字を除けば)カタカナしかありません。平仮名でもやろうと思えば同じことはできますが、名前情報としては平仮名で書いてもカタカナで書いても変わりません。クレジットカードの名前が全て大文字なのと同じことです。小文字でも同じ表現はできますが、わざわざ選ばせる意味がないので大文字で統一しているだけでしょう。それと同じことです。

もし自分が外国籍の子の親だったとして、日本の役所に出生届を出す際に、自分の子の名前を平仮名で書きたいですか? 平仮名で書いてもカタカナで書いても、子の名前は同じです。日本以外にはひらがなを使う国もカタカナを使う国もありませんので、どちらで書こうとその子の名前はその「音」でしかありません。

ひらがなを許可しても誰も得しないし、役所の仕事が煩雑になる可能性があるし、そもそもルールを変えるだけでもコストがかかりますよね。全く意味がありませんし、外国語の発音を表記するのに、「音を表記する専用の文字」を日本が使っていることは、なんの差別でもありません。また、日本の役所がそのような日本の言語文化に倣うのも差別ではありません。

これに尽きる話なんですが、「差別だ」ってブコメがついちゃうのは何故なんでしょうね。

前世の記憶が残っているという人の話

b.hatena.ne.jp

随分注目が集まっています。私としては、真偽を確かめるすべがない物事について真偽をあれこれいうのは野暮というか、知的に誠実な態度ではないと思っています。また、真偽は別として、人は基本的に正直なものとして考えます。

ところで、この話を全て信じるのなら、わかることは、「この人には前世の記憶がある」ということではないですよね。「この人は昔の人のことを知っている」ということです。

「記憶がある」ということは認めたとして、その記憶がどのような方法でその人に宿ったのかについては、全くとっかかりがないわけです。前世じゃなくてアカシック・レコードかもしれないし、タイムリープかもしれないし、時空を超えたテレパシーかもしれないわけです。

こういう時にすぐ「前世だ」とか思い込んでしまう人って、どういう感覚なんだろうと疑問に思うことがよくあります。

「この人には昔の人の記憶がある」という事実から、「この人には前世の記憶がある」という結論を導くためには「人が昔の人の記憶を持っている時、それはその人の前世の記憶でしかありえない」という前提が必要です。ここに無自覚なのではないかなと思います。

似たような話で、「幽霊を見た」とか「宇宙人を見た」とか言い出す人も、どういう感覚なんだろうなーと思います。

ふつう、例えば誰もいないはずの場所で人のような形をしたモノを見た、という時、それが幽霊だと考える理由はなんでしょうか。もしかしたら宇宙人かもしれないし、妖怪かもしれないのに、どうして「幽霊」になってしまうのか。

「宇宙人を見た」も同様で、それ宇宙人じゃなくて地球内のみ確認知的生命体かもしれないし、魔法使いかもしれないし、妖怪かもしれないし……と数え上げたら枚挙にいとまがないわけです。

これが例えば犬とかだったらわかるんですよね。まず、犬がどのようなものか知っていて、それをみれば犬だと判断できる、という経験に基づく前提があります。だから「犬のような形をしたもの」を見たら、「犬だ」と思うわけですよね。

もっとも、「人のような形をしたものが人じゃなくて幽霊かもしれない」と考える人だったら、「犬のような形をしたものが犬じゃなくて犬の幽霊かもしれない」と考えてもおかしくありません。

もっというと、「人だと思っているあの人が実は幽霊だった」ということもありうるという世界観になるんですけど、「幽霊を見た」っていう人の世界観ってどうなってるんだろう、とずっと思っています。

不思議なことやわからないことは世の中にはたくさんありますよ。でも、体験から言えることは「昔の人の記憶がある」とか「人がいないはずの場所で人のようなモノを見た」ということにとどまるべきであって「前世の記憶がある」だとか「幽霊を見た」ではないはずです。

「信じる・信じない」の話の前に、もっと知的誠実さを持ってものを言ってほしいと思います。