人の顔がわからないということ

小学校の頃からひとの顔が覚えられず、ずっと苦労しています。最近になって、それは記憶力の問題ではなく、相貌失認という先天性の病気かもしれないということをしりました。医師の診断を経たわけではありませんが、人の能力はひとそれぞれなので、顔を認識する能力が平均的なひとより顕著に低いのだということは、ありうるだろうとおもいますし、暗算が得意だとか、同時に複数のことをできるというような個人の能力をある程度自覚できるのと同じように、私の自覚もある程度信用できるものだと自分では思っています。

私の通っていた小学校は6年間、私の学年はずっとひとクラスでした。児童の出入りは時々あるから人数が増えたり減ったりはありましたが、クラスを分割する基準になる40人にたっすることはなく、36人前後をいったりきたりしていたおぼえがあります。

ずっとひとクラスで、クラス替えもなく、人数も36人前後ということで、通い始めて数ヶ月も経てばとうぜんクラスメイトの顔は覚えるだろうと母親は期待していたと思います。3年生になったある時、「まだ半分くらいしかわからない」と言って、驚かれたのを覚えています。どうしてこの時点で「この子は何かおかしい」と思って調べてくれなかったかと、時々悔やむこともあります。

幼稚園にいた時は、友達の顔がわからなくて困った、という記憶はありません。そのときは問題なかったのか、それともあまりにも幼くてそれすら認識しなかったのか、それともわすれてしまったのか、今となっては分かりません。

中学校、高校、大学と通って結局今まで一度も、クラスや部活動のメンバーを全員認識できるようになったという体験をできませんでした。

あるていど見慣れてくると、その人を見たらすぐにわかるようになるのですが、自分の脳がどうやってその人ことを認識しているのかわからないので、たとえば顔だけ見せられたら認識できないのかもしれません。

自覚している範囲では、私がひとを見分ける時に頼る情報は、まずコンテキスト。つまり、そのひとが、いつ、どこにいるか、誰と一緒にいるか、なにをもっているか、どんな服を着ているか、髪型はどうか、ということです。

これだけでひとを見分けようとするとあまりあてになりません。いちど、大学からの帰り、外で妹に声をかけられて、「誰だかわからない女の子に声をかけられた」と思い、適当にごまかして逃げてしまったことがあります。それが妹だったことは、後で本人から直接聞きました。妹を家の外で見ることは滅多にないので、認識できなかったんだと思います。

この「適当にごまかしてしまう」というのは、私の癖のようになっています。誰だかわからないひとが親しげに話しかけてきた時は、相手は私のことを知っているのだろう、しかし自分が認識できないのだろう、と考えます。そして、「相手は自分のことを知っているのだから、そしてこんなに親しげに話しかけてきているのだから、とうぜん相手も私が知っていると期待するはずだ」と考えて「自分が相手を認識できていない」ことを隠そうとしてしまうのです。

こういう問題があるので、ひととあうこと全般に恐怖心からくるストレスがあるのだと思います。

コンテキストの次に頼る情報は、歩き方で、私はこの点については平均的なひとよりもよく認識できると思います。まっすぐ立っていて動いてくれないとわかりませんが、歩いているとだいたい誰だかわかります。

だから、見分けにくいのは、相手が座っていたり、じっと立っていたりする時で、見分けやすいのは、全身の動きが良く見える、ある程度離れた距離にいて、歩いている時です。

その次は声です。「もしかしてあの人かな?」と思いつつ確信が持てない時は、その人が何か言うのを待って、集中して聞くようにしています。そうするとだいたいはわかります。

「コンテキストの外で、動いていなくて、声が聞こえない」という状況が一番弱いので、たとえば「向かいのテーブルに座っているひとと目があった」というような状況がひどく苦手です。距離が離れていると声をかけてもくれませんし、むこうは「目があっている」と思っているので、声を出すことなく「手を振る、笑顔を作る」などの動作で挨拶としてしまうのですが、私にはそれでは誰だかわからないのです。

コンテキストがかぶっていたせいでぜんぜん違う知らないひとに声をかけてしまったことは多々あります。そういうのは本当に恥ずかしくて、恐怖感があります。

この病気は「相貌失認」というそうで、Wikipediaに記事がありますが、それほど珍しい病気ではなく、人口の2%程度のひとが該当するのだそうです。

最近では、「人の顔を認識するのが苦手である」とか、「相貌失認という病気だ」というようふうにひとに話すこともありますが、これも相手にどう受け取られるのかよくわからないので、あまり積極的にはできません。怖いので。ぶっちゃけ、「わたしびょうきなんだよねー」とか言われても、困るでしょ。ただ、事前に言っておくことで「もしその人を認識できないことがあっても、わかってくれるだろう」という期待があります。

英語ではFace blindnessというそうで、なんてわかりやすいんだろう、と思います。「相貌失認」なんて知らないとわからないでしょう。Face blindnessならColorblindから類推して「ああ顔がわからないんだな」と思ってくれそうです。

なお、病院に行かない理由ですが、これは現在治療法がなく、「病気」認定をしてもらったところで誰かが助けてくれるわけでも国がお金をくれるわけでもないからです。

散歩をしながら私たちが公園を見た

散歩をしながら私たちが公園を見たnihongotopics.wordpress.com

  • 散歩をしながら私たちが公園を見た。

この文は英訳「We saw a park while walking.」とともにFacebookに投稿されました。「私たちが」によって「we」を表そうとしたようですが、これは削除してしまってよいでしょう。人称代名詞は多くの場合有用ではなく、この場合も有用ではありません。「見た」にはいかなる助詞も付いていませんので、「I」とか「we」とかいうことなしに、主語は「I」であるとみなされます。他の誰かが一緒にいたということを示したい場合、「〜と」を使って以下のように表現できます。

  • みんなと散歩をしながら公園を見た。
  • 友達と散歩をしながら公園を見た。

「サムソンはなぜ"Samsung"なのか?」(極東ブログ)へのコメント

サムソンはなぜ"Samsung"なのか?: 極東ブログ

  1. サムソンはハングルでは「삼성」と表記される
  2. 「삼성」は文化観光部2000年式ローマ字表記に従えば、"Samseong"になるはずである
  3. ではなぜ"Samseong"ではなく"Samsung"なのか?

という疑問ですが、考えすぎです。

  1. 観光部2000年式ローマ字が唯一のローマ字方式ではない
  2. むしろ、より英語の発音に近い方法、例えば「성」を"seong"ではなく"sung"と表記する方法も一般的である(むしろ、こちらの方が一般的であるとすら感じます)
  3. そのような「英語近似式」ローマ字で「삼성」をローマ字化すれば"Samsung"となり、何の不思議もない。

ついでに言うと、そもそもロゴマークはマーケティングのためのものであって、韓国語を特定のローマ字方式で正確に記述することは目的ではなく、むしろ彼らのターゲットであろう北米市場を考えれば、米国人が知らない観光部2000年式ローマ字を使う理由はありません。

なお、

おそらく、「三星」から「삼성」となりそこから「Samsung」が生じた、というのではなく、英語名のロゴとして新規に「Samsung」ができたと考えてよさそうだ。
 しかし、そうだとすると、これは英語風に読むと「サムサン」になってしまう。

という記述がありますが、確かに英語のu音は日本語で近似すると「ア」になります。ですが韓国語で近似すれば"어"なんです。この"어"をさらに日本語で近似すると「オ」になってしまうのがややこしいところですが、3つの言語が関わるとこういうことはよくあります。

삼성を英語の発音でできるだけ再現しようとすればSamsungになるだけのことであり、観光部2000年式も日本式ローマ字も関係ありません。

 

なぜ日本語では人称代名詞が不要なのか

What's so special about Japanese personal pronouns?nihongotopics.wordpress.com

I, you, he, she, they –– これらは人称代名詞と呼ばれます。ヨーロッパの言語は一般的にこれらに相当する単語を持っていますが、日本語はそうではありません。

「私や僕といった単語はどうなんだ?」という疑問をお持ちの方もいるでしょう。それらは単に名詞なのです。ある意味では、代名詞と呼ぶこともできます。なぜなら、意味は英語の代名詞と似通っていて、一般的には英語の人称代名詞を日本語に翻訳する際には用いられるからです。

実際の会話 –– アニメなどのフィクションではなく –– を注意深く観察すれば、これらの使用がいかに少ないかに驚かれるかもしれません。

英語の人称代名詞と何がそんなに違うのか?

英語の人称代名詞は言語の基本的な装備品の一つです。"he'll go there" とか "I'll go there" といった極めてシンプルな表現にさえ必要です。これらの文では、Iとheは動詞が会話の中で誰に関わるものなのかを示すマーカーです。もしこれらがなければ、文は曖昧になり、意味を確定するためにコンテキストに依存しなければならないでしょう。

翻って日本語では、「行く」主体を決定するのは代名詞ではありません。以下の例をとってみましょう。

  1. 行くって。
  2. いらっしゃるって。
  3. 行く。

これらの文はただの一つの人称代名詞も持っていませんが、誰が行くのか、また、それらにふさわしい英語の人称代名詞は何か、それぞれ判別が可能です。少しの間考えてみてください。

  1. 行くって。 – she/he/they
  2. いらっしゃるって。 – she/he/they
  3. 行く。 – I

なぜでしょうか?まず、第一の文には終助詞「って」があります。これは述べられた情報がsecondhand –– 第三者によって提供されたこと –– であることを示します。「行く」が第三者によって提供された情報であるとすれば、論理的に言って、主語が"I"または"you"であることはありえません。従って、she/he/theyと言えるのです。

第二の文にもまた「って」がありますから、主語はshe/he/theyであるということができます。この文の動詞は尊敬語ですから、主語は話者よりも上位の誰かであるということもわかります。英語では性を区別しますが、日本語では話者に対する立場を区別するのです。

三番目の文には何らの終助詞もなく、動詞は終止形になっています。日本語では、文が終止形の動詞だけから構成されるということは、その話者がその情報を直接知覚可能だということを意味します。もし誰かが「行く」とだけいい口を閉じてしまったなら、「行く」のは話者であるとわかるのです。なぜなら、「行く」ことを直接知覚できるのは行く張本人だけであって、誰か他の人が「行く」ことを直接知る方法はないからです。もし誰かが「行く」ことを話者に告げたなら、「行く」ことを間接的に知っていることになります。動詞が終止形で、他の何らの要素もないということから、主語は"I"であると言えるのです。

英語では、主語は代名詞によって示されます。日本語では、文の複数の要素によって示されます。

表音主義、表意主義、そして表語主義について

表音主義と表意主義の違い

国字改革の文脈で、表意主義と表音主義というのがあったのそうで、要は表意文字である漢字の使用を続けるか、音さえ表せればいいのだということで表音文字であるかな文字あるいはローマ字にスイッチするかという対立でした。

で、現在の日本語の書き言葉は、表音主義の意見が取り入れられつつも、概ね表意主義者の主導でデザインされたそうです。

この違いはどういうところに現れるかというと、例えば表音主義では同音異義語を区別せずに書き表します。はっきり言って一目で区別できない単語が増えると不便そうですが、「そんなもん慣れ。実際の会話は音だけでやりとりしてるのに通じるんだから問題ないのは明らか。」というのが彼らの考え方ですね。

表音表記の例:
  • かがく(科学、化学)

一方表意主義者たちは、音が同じであっても意味が違う単語は区別して描かれるべきだと主張します。合理的なように思いますが、逆に言うと音が違っても意味が同じだったら同じに書かれてしまうことがあるわけで、それはそれでどうなのか、見た目で区別しにくい単語が増えるのではないか、という感じがします。また、漢字を使うので、日本語の単語としては同一で意味の区別をしないところでも、漢字では区別が可能というときには、話し言葉以上に書き言葉では細分化して表記するということが行われます。

表意表記の例:
  • 足、脚(和語ではどちらも同じ「あし」)
  • 早い、速い(〃「はやい」)
  • 行う、行く(別の単語なのに意味に同じ部分があるから同じ字を使う)

表語主義とは

というわけでどちらの方式にも疑問が拭えないので、第三の方式「表語主義」を主張したいと思います。

表語主義とは「同一の形態素は同一に、異なる形態素は別々にかきあらわすべき」という主義です。形態素とは、まあ単語みたいなものですが、一つの単語が複数形態素から構成されている場合があります。例えば、"unbelievable"という単語は、un-be-lieve-able というふうに4つの形態素に分解できます。それぞれの形態素には意味がありますが、これ以上分解すると意味がなくなってしまいます。「意味を持った言葉の最小単位」と考えてください。表語主義では、この形態素を単位として考えて、「同じものは同じに、違うものは違うように」書き表そうとします。

表語主義を採用するには、単語の表記を「形態素ごとに」定義する必要があります。端的に言って、ルールなんて二の次で、一個一個綴りを定義しましょう、というやり方です。

もちろん、それでは覚えるのが大変になるので、ある程度の規則性を持たせることは可能です。あくまで「究極的には」一つ一つ個別に定義しましょう、ということです。

表語主義を採用している言語

表語主義を採用している言語には、英語があります。英語は、ある程度綴りと発音の間に規則的な対応がありますが、例えば中国語のピンインのような完全な対応ではなく、同音異義語は書き分けられます。

英語には同じ意味を持つ形態素複数ある場合があります。表音主義とは違い、表語主義ではこれらの意味の重複した形態素も、別の形態素であれば区別して書き表そうと考えます。

例えば、英語には「2」を意味する形態素が幾つかあります。twoのほか、bisexualなどのbi-や、dualやdoubleも「2」を意味する形態素です。先ほどの表意主義に基づけば、「意味が同じなのだから、表記を統一しよう」という話になるのですが、英語では別々の形態素は意味が同じであっても別々に表記します。

また、英語には同音異義語も幾つかありますが、「同じ音なら区別せずに表記しよう」と考える表音主義とは違い、意味が違う形態素はきちんとかき分けられます。

例えば、rightは「正しい」riteは「儀式」で、発音は同じです。しかし語源的に考えても関連性はなく、意味も大きくかけ離れているので、「別々の形態素である」と考えて、かき分けられています。

もっとも、英語の書き言葉のルールは1から100までトップダウンで制定されたわけではないので、「表語主義」が実際に意識されていたかどうかはわかりません。ただ、結果としては高度に表語主義的な表記体系になっています。

表語主義の例:
  • two, bi-, dual, double (意味は同じだが、語源も発音も異なるため書き分けられる)
  • right, rite(発音は同じだが、語源も意味も異なるため書き分けられる)

A thought on designing a writing system

A Thought on Designing a Writing System

Things that may make it less readable

Homographs: 
  • Gakkou no kaidan (学校の階段)/ Gakkou no kaidan (学校の怪談
  • Shikai ni soudan suru (歯科医に相談する) / Shikai ni soudan suru (司会に相談する)
Minimal Pairs
  • six / sex
  • but / bud
Similar letters
  • dog / bag
  • パピプペポ / バビブベボ (The worst thing in the Japanese writing system)
  • Especially dangerous when you see a word that you didn't know (e.g. パンデクテン or バンデクテン ?)
Badly designed letters
  • Kanji and kana are originally for vertical writing (e.g. に or しこ? 江 or シエ? 好 or 女子?)

How you can possibily make it better

Reduce the nmber of homographs, minimal pairs, and similar-looking words
  • Utilize accent symbols: háshi (chopsticks), hashí (bridge), hashi (edge)
  • Employing the traditional kanadsukai (旧仮名遣い): 回, 貝 and 階 are all kai in the modern kanadsukai, but in the traditional, they're kwai, kahi, and kai. 
  • Capitalizing the first letters of katakana words (e.g., クリスマス and 暮らします are more distinguishable when the first letter of Kurisumasu is capitalized. )

 

日本語の語順と文構造

*以下の日本語文法は私の独自の解釈によるものです。文中で解説している文法用語は独自のものです。

 

日本語の文構造は大きく二つのパーツに分解することができます。

本節(ほんせつ)は、後述する二つの種類に分かれる部分で、主部、目的部、述部、および「ね」や「よ」などの終助詞を含む部分です。

係節(かかりせつ)は、本節の直前に置かれ、文脈を限定する役割を果たします。「は」や「も」などの係助詞が接続されるのがこの部分です。

日本語には大きく分けて二つの種類の文があり、その違いは本節の構造に表れます。本節に「です」を用いるものを「です文」、「ます」を用いるものを「ます文」と呼びます。

です文は、目的部は含まれず、主部と述部から構成されます。述部は名詞節、形容名詞節、または形容詞節に「です」を接続することで構成します。です文の述部となるこの部分を「です句」と呼びます。

ます文は、「です」ではなく「ます」を用いる構文で、主部、目的部および述部を含みます。ます文の述部は、「ます」で終わる単独の動詞によって構成されます。この時、動詞には付属語が接続されることもあります。ます文の述部となるこの部分を「ます句」と呼びます。

主部および目的部は、名詞節によって構成されます。主部には「が」、目的部には「を」などの格助詞が接続されることがあります。

です分、ます文のいずれにおいても、係節の構造は同じです。係節は、本節とは独立し、名詞節から構成されます。「は」、「も」、「って」などの係助詞が接続されることがあります。話し言葉においては、係節と本節の間にはわずかなポーズが置かれることがあります。書き言葉においては、読点が置かれることがあります。

話し言葉においては、係節が単独で用いられることもあります。顕著な例は係助詞「は」を接続し、疑問文のイントネーションで発声を終えることで構成する「は疑問文」です。

例を見てみましょう。有名な「象は鼻が長い」は、以下のように分解されます。

(係節)象は、(主部)鼻が(述部(です句))長い。

初めの係節「象は」で、続く本節の文脈が「象」に関する話題に限定されることが示されています。接続されている係助詞「は」は、排他係助詞であり、単に象の話をしているというだけでなく、本節に述べられている内容は象に排他的に適用されるということを示しています。直前に亀やクジラの話をしていたのであれば、「は」を用いることによって、「鼻が長いのは象であって亀やクジラではない」ということを示すことができます。

主節の初めの部分である主部「鼻が」は、続く述部「長い」の主語が「鼻」であることを示しています。接続されている格助詞「が」は強調の役割を果たします。象は足も長いし尻尾も長いかもしれないが、それでもやはり象について長いものを一つ挙げるならそれは鼻である、ということを示しています。

最後の述部「長い」は、主語である「鼻」が「長い」ということを示しています。

もう一つ日本語学において有名なです文といえば、「僕はうなぎだ」があります。これは「うなぎ文」として知られています。

(係節)僕は、(述部(です句))うなぎだ。

先ほどの例とは違い、主部が欠損しています。主語が欠損しているので、当然それに含まれるべき主語もありませんから、文脈によって補うということになります。

係節「僕は」は、本節で述べている内容が「僕」に関することであるということを示していますが、それだけでは主語はわかりません。もともとうなぎ文は、料理店で注文を聞かれた際に出る表現として紹介されました。この場合、主語は「僕が注文したいもの」ということになります。別の場合も考えることができます。例えば、「好きな食べ物は何ですか」と聞かれ、数人が答えた後、あなたは「僕は、うなぎだ」と答えることができます。この場合は、「僕が好きな食べ物」が主語だということができるでしょう。いずれの場合においても、主語は「僕」に関係のあることでなければなりません。

以上はです文の例でしたので、次はます文の例を見てみましょう。

(係節)ソビエトロシアでは、(主部)テレビが(目的部)あなたを(述部(ます句))見張る。

ます文なので、目的部を含めることができます。目的語「あなた」に接続されている「を」は「が」と同様に格助詞で、強調の役割を果たします。テレビは私をもあなたの母親をも見張っているかもしれないが、それでもテレビが見張るものを一つ挙げるならそれはあなただ、ということを示しています。

ます文においても、です文においても、主部は頻繁に省かれます。係節によって文脈が限定されるので、主語は自ずと明らかであることが多く、その場合、さらに重複して主語を指定することは忌避されます。