Ten Days with the MacBook 12-inch Early 2015

前回のエントリからしばらくたって、今日で10日目になります。初日と今日を合わせて10日間使ったことになりますので、思うところを書いてみようと思います。

なお、前回のタイトルでは Mid 2015 と書いた覚えがありますが、Macの「このMacについて」の画面上で確認してみたら "Early 2015" でした。

最初からずっと気にしているバッテリーの持ち時間ですが、思った以上に長く持ちます。画面が綺麗なので今までiPad AirでやっていたこともMacでやるようなことが増えたのですが、それでも夜まで充電が足りなくなるということがありません。

それどころか、1日使っても半分くらいはバッテリーが残っているので、最近バッテリーが持たなくなっている私のiPhone 5を充電できるくらいの余力があります。

よく知られている通り、このMacBookはイヤフォンジャックを除きUSB-Cだけしかポートがありませんから、iPhoneを充電するためにはアダプタが必要なのですが、Amazonで持ち運びに便利な小さなダプタが2個セットで7ドルくらいでしたので、買ってしまいました。

ケースは15ドルのフェルト製のものを買って、iPad Airと一緒に入れて脇に抱えて持ち歩いています。バッグにしまってしまうよりも、すぐに取り出して使えて楽です。

バッテリーのもちは、作業をせず画面だけ表示している時に顕著で、画面を見てしばらく操作しないでいてからバッテリーの残り時間表示を見ると、13時間を超えていたりしますので、バッテリー節約のために画面をオフにする必要はなさそうです。設定画面から省電力設定を変更して、画面を自動的にオフにしないように設定しました。

iPad Airもそうですが、画面を常にオンにしていられるというのは、まさに印刷物や電子ペーパーの強みなわけですが、これくらいのバッテリーライフがあると液晶画面でも、毎晩充電するという条件付きで、同じことが可能なわけです。画面のオン・オフがないというのは、本当に快適で、今まさにベッドの上にiPad Airが画面がオンのまま転がっているわけですが、画面には読みかけのページがそのまま表示されていて、これはまさに雑誌などを開きっぱなしで放置するのと同じ感覚なわけで、これがデジタルデバイスでできるようになったというのは、本当に大きなことだと思うのです。

以前使っていたMacBook Airからのデータの移行ですが、今回は新しいMacとして設定しましたので、iCloudで自動的に同期されたデータ以外は、必要に応じてTime Machineから取り出そうと思っています。別のMacでバックアップされたデータをTime Machineから取り出す方法がわからなかったのですが、ググったら見つかりました。知っていれば簡単で、メニューバーのTime Machineアイコンをクリックする時に、Option キーを押していればいいだけです。

Time Machineは、同じディスクに複数のMacのバックアップを保持できるので、以前から使っていたディスクがそのまま使えます。前のMacのバックアップはそのまま保持されますから、必要になった時にはいつでも取り出すことができます。

Time Machineの他に、オンラインのバックアップ先として、 Crashplan を使っているのですが、これの移行もすでに済ませました。これは私のプランだと一台のMacしか同時にバックアップできないので、これを持って古いMacの内容はバックアップされなくなり、新しいMacに存在しないデータは、削除されたと見なされます。Crashplan は削除されたデータも無期限に保持してくれますので、これも必要になったらいつでもダウンロードが可能です。

Crashplan は容量無制限で、外部ドライブも無制限にバックアップでき、削除されたファイルも無期限に保持してくれるというサービスで、競合に比べて安かったので使い始めましたが、iCloudがもう少し安くなれば解約したいと思っています。何も絶対に無くしてはいけない記録を取り扱っているわけではないのに、iCloud、Crashplan、それにTime Machineという3重バックアップ体制になっているのは、少しオーバーキルというか、もっとシンプルにしたい、という感じがあります。ただiCloudはCrashplanを置き換えるにはまだ値段が高いですね。

バックアップといえば Google Photos をしばらく使っていましたが、自動的にデータを吸い上げてグーグルのサーバーに送ってもらっているだけで、特に楽しいことは何もないので、もう使うのやめたい感じがしています。古いMacにはアプリがインストールしてあって、今も新しい画像を監視しては吸い上げているわけですが、新しいMacは容量が足りなくなることは当面なさそうですし、iCloudも月1ドル払い初めて容量が大きくなったので、Googleの「容量無制限」といううたい文句はそれほど魅力的ではなくなりました。

画面の解像度ですが、デフォルト設定を変更してスペースを広く取っていましたが、これはデフォルトの設定に戻しました。いくつかのアプリでは、画面を広くする設定だと文字が小さすぎます。

Sierraの動作で、いくつか不具合が見つかりました。

ミッションコントロールを表示する時に、ウィンドウをたくさん開いていると、アニメーションがもたつきます。これは新しいアニメーションに変更した為ではないかと思っています。今後のアップデートで解消されるといいですが、今のところはあまりたくさんウィンドウを開きすぎないほうがいい、という感じです。

完璧に動作していると思った Universal Clipboard ですが、今まで動作しなかったことが複数回ありました。いずれも学校のWi-Fi環境下だったので、ひょっとしたら周囲の電波状況によって動作しにくいことがあるのかな?と思っています。これが動作しないというのはなかなかフラストが溜まる状況です。

Sierraというより、もっと深い部分の問題のような気がするのが、Force Touch トラックパッドが反応しなくなったことです。前日スリープ状態にして、翌朝開いたらクリックできなくなっていました。tabキーの操作で電源を切って再起動したところ直りましたが、これがもし頻繁に起きるようなら致命的です。

10日間使ってみて、オーバーオールでは、大変満足のいく乗り換えでした。

MacBook 12" Early 2015 Space Grey

以前からずっと欲しかった、12インチのMacBookを先日買いました。お金を節約したかったので、新品ではなく、中古の2015年版を買いました。

最新のモデルと比べ、わずかにプロセッサのパワーとバッテリーの持ちが劣るだけであって、全体的な使用感にほぼ変化はないと思います。

今まで使っていたのは2012年の11インチのMacBook Airで、これはバッテリーがそもそも4.5時間しか持たないと謳われていたモデルで、普段から不便だなと思っていました。MacBook Airは2013年からほぼ一日中使えるバッテリーライフを搭載したので、後1世代違えば、と思うところはあります。

もちろん、2015年のMacBookが2012年のMacBook Airに勝るのはバッテリーライフだけではありません。Retinaディスプレイはもちろんのこと、新しいキーボードとより良くなったトラックパッド、また、画面は少し大きく縦長で、筐体は非常に小さく、薄く、軽くなっています。

この薄さと小ささには目を見張るものがあって、これが机に置いてあるのを見ると、まるでSF映画のワンシーンのようです。

バッテリーライフですが、とりあえずデフォルト設定のまま普段のように使ってみました。具体的には、ノートをとったり、教科書を開いたり、ウェブサイトをチェックしたり、Eclipse でコードを書いて実行したりという作業です。これでどれくらいバッテリーが持つか試してみたのですが、どうやら7時間から8時間程度のようです。Appleは9時間のバッテリーライフを約束していたはずなので、少し期待外れかなというところでしょうか。

実際には、デフォルト設定のまま使いたいということはなく、例えば初期設定のままでは画面は眩しすぎますし、キーボードのバックライトも、こんなに明るい必要はありません。というか、キーボードのバックライトに関しては、見た目が綺麗なだけで、あまり便利なことはないので、ひょっとしたら完全にオフにしてしまうかもしれません。

使いやすいように画面を少し暗くして、どれくらいバッテリーが持つかですが、少なくとも9時間くらいは使えそうな感触です。もちろん、バッテリーライフは具体的にMacBookで何をするかで大きく変わります。何かを表示してそれを読んでいるというような場合、バッテリーはかなり長持ちしますが、今のように日本語をタイピングしている場合は、バッテリー消費が激しようです。メニューバーのインジゲーターは、残り93%のバッテリーで、6時間45分持つと表示しています。

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ちなみに、この状態で画面の明るさ設定はどうなっているかというと、こんな感じです。

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キーボードのバックライトも少し暗くしてあります。

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そもそも1日に7時間以上パソコンで作業しなければならないということはそんなに多くありませんから、基本的には充電器を持ち歩く必要はなさそうです。

キーボードですが、これは少し評判が悪いところだと思います。ただ、私の感触では、これは非常にいいキーボードで、確かに今までのキーボードと打鍵感が大きく違うものの、タッチスクリーンの打鍵感に近いため、普段からiPadiPhoneを使っている私としては、ギャップが少なくなって快適です。キーが非常に浅いため、深く押し込む必要がなく、軽くタッチするだけで入力ができます。今までのキーボードよりも力が必要ないので、疲れにくいのではないでしょうか。

この浅いキーボードのもう一つのいいところは、立った状態で使いやすいということです。MacBook Airのような軽量ラップトップであっても、立った状態でタイピングするのは以上にやりにくい作業でした。利き手ではない方の手で本体を支えて、利き手でタイピングをすると、キーを押し込む力で本体がぐらついてしまうためです。MacBookのこの薄いキーボードは、キーを押し込む力は非常に弱くても大丈夫なので、本体のぐらつきが最小限に抑えられます。iPadが立った状態で使いやすいのと同じような感覚です。

ティスプレイは素晴らしいの一言です。Retinaディスプレイなので、美しいのはわかっていましたが、しばらく使っていると、このディスプレイの美しさが身にしみてきます。同じようにウェブサイトを見ていても、MacBook Airとは全く違って見え、印刷物のようにいつまでも眺めていられます。ガラスとディスプレイの距離は非常に近く感じられ、iPad Airのように浮いている感じがしません。12インチですので、大抵のPDFファイルは見開きで表示できます。文字が小さすぎると思ったのですが、解像度がここまで上がると、小さな文字でも快適に読むことができることがわかりました。

文字がある程度小さくても快適だとわかったので、ディスプレイ設定を変更し、デフォルトよりもスペースを広げています。(前掲の画像参照。)こうすると、例えば Eclipse においてより多くのコードを一つの画面に表示できるわけです。

このMacBookが私の家に届いた翌日、9月20にmacOS Sierraが正式にリリースされました。これを適用すると、いくつかのアニメーションがリデザインされ、また、ついにSiriがMacにやってきました。今のところ不具合は一切なく、新しいアニメーションは納得感の大きいもので、とても良いアップデートだという感触です。

Siriに関しては、Hey Siri が使えないため、わざわざキーボード入力よりも不安定なボイスコマンドで何かをする用事があるかというと、あまり多くはなさそうなのですが、今後に期待というところです。

ちなみに、Macには以前からアクセシビリティ設定の一部として、ボイスコマンドで操作する機能があり、この設定をいじって Hey Siri で Siri を呼び出すことはできるのではないかと思います。

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Sierra で一番実用に資しそうな機能は、Universla Clipboard ではないでしょうか。Appleの無線技術に関しては、(現在では大きく改善されているものの)AirDrop があまり思った通りに動かないことが多かったため、また同じようなトラブルが続くのではないかと思っていたのですが、全くなんの設定も必要なく、ただiOSバイスで何かをコピーし、Mac上で貼り付けのコマンドを入力するだけで動作し、まさに It just works! というような気持ちのいいものでした。

Macが競合のWindows製品と比べてよく批判されるのは、タッチスクリーンを備えていないところですが、例えば手書きをしたいというような場合、iPad上で手書きをし、それをコピーしたら、それだけでMacで貼り付けをすることができるので、少し弱みが軽減されたかなという感じがします。もっとも、いい加減タッチスクリーンの導入を考えてくれてもいいのではないか、という気もするのですが。(MacBook Proにおいて部分的に導入されるという噂は立っていますので、発表が楽しみです。)

なお、Macにタッチスクリーンが搭載されるのは楽しみではあるものの、問題はどのようにタッチインターフェースをデザインするかということですので、単にハードウェア側の事情だけでタッチスクリーンを搭載しないのは、非常にAppleらしい動きではあると思います。Microsoftはタッチスクリーンでもマウスでもどちらでも使いやすいようにWindowsをデザインし直しましたが、(過去最高のWindowsであるという点についてはMicrosoftに同意できるものの)それほどよくデザインされているとは思えず、この程度の実装になるのであれば、今のままのMacの方がましだとも思います。

非常に評判のいいスピーカーですが、普段私はヘッドフォンを使いますので、音質に関してはまだ何の感想もありません。そもそもこのポータブルデバイスでスピーカーを使いたいことがあるかというと、そんなにないんじゃないかと思います。Appleはここはいいスピーカーを搭載する必要はなかったんじゃないかな、という気がするのですが、どうでしょうか。

日本語のライブ変換ですが、非常に快適です。ライブ変換は去年の El Capitan から搭載された機能で、今までのように変換候補を選んで確定するのではなく、タイピングするそばから自動で変換して、しばらく打ち続けると自動で確定するという、まさに革命的な機能なわけですが、残念なことに私の古いMacBook Airではラグが大きく、あまり快適ではありませんでした。このMacBookではどうかというと、El Capitan でもMacBook Airよりも快適な速度でしたが、 Sierra にアップデートした後は非常に早くなり、まるで英語を打っているかのようなスピードで日本語を入力することができます。もちろん時々変換ミスがあり、修正しなければならない場面があるものの、概ね非常に正確で、ミスの頻度は英語を打っている時のタイプミスに比べても悪くありません。

去年のエントリでも書いたことではありますが、日本人の事務処理能力の向上に大きく資するのではないかと思います。

最後になりますが、私がこのMacBookのデザインで最も好きなところは、ファンを搭載していないことです。ファンを搭載しないラップトップというのはある種夢のマシンであって、ソニーがずっと前からやっていましたが、いつでも保守的で、新しいことに対して慎重なAppleは、Macからファンを取り除くのに2015年まで待たなければなりませんでした。

ソニーがやるのとAppleがやるのでは、同じことをやるのでも大きく意味が違います。ソニーは前衛的な企業であり、新しいことにすぐに挑戦します。前衛的な製品は、未来を見せてくれるものの、全体的な使用感では「こなれていない」感じを与えることが多いです。例えばファンがないパソコンというのは、発熱の多いプロセッサは搭載できないため、そして、発熱の少ないプロセッサはすなわち非力なプロセッサであるため、非常に動作が遅くなるという欠点がありました。ソニーはそういう欠点を抱えたまま製品を出していたわけです。購入者は、欠点を理解した上で購入する必要がありました。

対してAppleは非常に慎重で、新しいアイデアはすぐには採用しません。全体的な使い勝手が十分よくできるようになるまで待つのがAppleのやり方です。ソニーが10年前からやっていたことをAppleがやっとやったわけですが、プロセッサは10年前とは違い、少ない発熱でも十分な速度が出るようになりました。

MacBookは、非常に美しく、使いやすく、完全に無音な、非常に完成度の高いデザインで、今後5年間は軽量ラップトップのベンチマークとなることでしょう。

言語の対称性とかに関する思いつきのメモとか+雑記

雑記

2012年のMacBook Airのバッテリーがエラー表示を出してる。バッテリーの持ちはまだいけそうな程度には良いのだけど、気になる。Appleの公式ヘルプページによると、このエラーは出たままの状態でも使い続けることができる類のものらしい。

最近鬱憤を感じるので何か書こうと思ってはてなブログを開いたらミャオ語について書いた記事にコメントが付いていて嬉しかった。

最近あまり楽しいことがない。

日本語ブログのアクセスが増えている。今月は記録更新できそう。

言語の対称性について

英語でも日本語でもミャオ語でも、とにかく人間が話す自然言語は同等の機能を持っているはずで、このアサンプションには証明はないけれど、人間の脳の情報処理能力が言語・民族・人種などを問わずだいたい同程度だということは統計的にわかっていて、もし人類の脳の情報処理能力がが同じなら、言語によって伝達される情報の種類、質、量は同じであるはずだ、とか、あるいは親が白人だろうが黒人だろうがなに人だろうが、何語を話していようが、要するに血統に関わりなく生まれた後の環境次第であらゆる言語を同等の期間(約12年間)で習得可能だというある程度確かめられた事実が、傍証になっていると思う。

あらゆる言語が同等の機能を持っていると仮定すると、たとえば日本語にある機能は英語にもあるはずだし、逆もまた然り、ということになるのだけど、これは一見して直感に反することもある。

たとえば有名な例だと、英語にはwhat, when, where, who, why, howのいわゆる5W1Hの疑問詞があるのだけれども、このうちのどれをどう使っても、「何番目ですか?」という疑問文を構成することができない。

もっと巨視的な話をすると、たとえば日本語では文中に主語が明示されないことが多いとか、あるいは逆に英語だと「情報の確からしさ」を表示する機能(日本語では「だろう、みたい」などそれらを表示する部品が多数ある)が乏しいということが言われる。

この事実は先の「言語の機能は皆同じ」仮説に反するんだろうか?

反しない、と考える。ここで確認しておきたいことは、まず表示には明示的表示と黙示的表示があるということだ。この違いは数学の方程式を使うとわかりやすい。

x = 1

この等式は、xの値を明示的に表示している。

4 = x + 3

この等式は、xの値を明示的に表示していない。しかし、xの値は1だと求めることができる。だからこれは、明示的に表示してはいないけれども、xの値を黙示的に表示していると言える。

たとえば日本語には主語がない、という事実があったとして、じゃあ日本語の文は主語を表示していないか、というとそうではない。先の方程式と同じように、与えられた情報を整理すれば、主語を導き出すことができる。

つまり、一見ある言語が別のある言語が表示している情報を表示しないように見えても、それは明示的に表示していないというだけのことであって、黙示的にはきちんと示されているというわけだ。

では、「ある情報が表示されていない」という問題ではなく、「ある表現を構成できない」という問題はどうだろう。たとえば、先に挙げた、英語では「何番目ですか?」を構成できない、という問題。

これも結局のところ数学と同じで、ある表現規則によって特定の表現が構成できないからといって、その表現規則が別の表現規則と同じ機能を有していないというわけではない。

たとえば、数学におけるtan xは常にsin x / cos xだから、もしこの記号がなかったとしても(もし数学という言語にtangent記号がなかったとしても)、同等の機能を実現することは可能だ。tan xの代わりにsin x / cos x と、少し長い表現になってしまうというだけのことである。

英語も同じで、「何番目ですか?」という表現が構成できないからといって、その表現が持つ機能を再現できないわけではない。「オバマ大統領は何番目の大統領ですか?」という代わりに「オバマ大統領の前には何人の大統領がいましたか?」などといった代替表現はいつでも可能なのだ。

だから、やはり最初の「人間の言語はどれも同じ機能を有していて、ある言語にある機能は他の言語にも必ずある」というアサンプションは、一見してある言語における特定の機能が他のある言語に見られないことがある、という事実によっては反証されていないと言えるだろう。

2015年1月から放置されていたiOSの辞書バグが修正されました

少なくとも2015年の1月頃から約1年半もの間放置されていたiOSのルックアップ辞書のバグが修正されました。このバグは、iOSのシステム言語を英語に設定している場合に、ルックアップ辞書の設定画面でJapanese, Japanese-English, Simplified Chinese, Simplified Chinese-English の4冊の辞書のみが、選択しても辞書画面を閉じると再度開いた時には選択解除されていて、使用するたびに選択し直さなければならないというものでした。iOS全体の使い勝手に関わる非常に厄介なバグでしたが、先日配信が開始されたiOS 9.3.2において修正され、システム言語を英語に設定している場合でも、日本語と中国語の辞書が不具合なく利用できるようになりました。

iOSには、ルックアップ辞書と呼ばれる、テキスト選択時のポップアップメニューから利用できる辞書機能があります。これはiOSのかなり早い段階から搭載されている機能で、OS Xに於ける三本指ルックアップ辞書に相当する機能を提供するものです。

American Enligshとして提供されている New Oxford American Dictionary をはじめ、フランス語やタイ語など、16の言語、計24冊の辞書が無料でダウンロードできるようになっており、iOSの代表的な機能の一つになっています。

ところが、少なくともiOSのいつかのバージョンから、少なくとも2015年1月頃、バージョンで言えばiOS 8.* の頃から、システム言語を英語にしている場合、この16言語24冊のうち、中国語と日本語の辞書計4冊のみが勝手に選択解除されてしまい、使用するたびに選択し直さなければならないという状態が続いていました。

このバグはiOSのシステム言語を日本語または中国語に設定している場合には再現しないもので、この4冊の辞書を主に利用する日本語話者及び中国語話者が遭遇するケースは比較的限定されていたと考えられますが、様々な理由でシステム言語を英語にしているユーザーにとっては深刻な問題でした。

長らく修正されずに放置されていた辞書バグでしたが、今回、iOS 9.3.2のリリースによって修正され、システム言語を英語にした状態でも中国語及び日本語の辞書が問題なく利用できるようになりました。

モン族の言語「ミャオ語(モン語)」が面白かったのでメモ

アメリカ中西部にはモン族と呼ばれる民族の人がたくさんいます。モン族はネイティブアメリカンではなく、ヨーロッパからの入植者でもなく、ベトナム戦争後アジアから難民としてアメリカに逃れてきた人たちです。

彼らはミャオ語と呼ばれる言語を持っていて、学校や職場では英語でも、家庭ではミャオ語というケースが多いようです。

クラスメイトにモンの人がいて、ミャオ語を少しだけ教えてもらいました。教えてもらったその日にググったりしていたので、聞いたことをそのまま書いているわけではなく、概ねウィキペディアを頼りにしています。

ミャオ語は地域的には中国語と隣り合っていますが、中国語とは違いシナ・チベット語族には含まれず、「ミャオ・ヤオ語族」という語族に含まれるそうです。

ミャオ語の表記体系は独特です。アメリカではローマ字で記述されるので、見た目は他の多くの言語とあまり変わらないのですが、7つのトーン(声調)を中国語やベトナム語のようなアクセント記号ではなく音節末子音として記述します。

これはどういうことかというと、たとえば「食べ物」はmovというそうですが、この語末のvは音声上の子音ではなく、母音oのトーンを表現しています。

語末の子音は音声上の子音ではないので、概ね開音節の言語のようです。

ミャオ語の音声には日本語や英語や中国語にはない特徴があります。他の多くの言語と同じくmとnがありますが、特徴的なのは、この二つの子音の有声と無声を区別することです。そもそも「無声のm」というものの存在を考えたことすらなかったので、これは衝撃でした。有声のmはmと記述され、無声のmはhmと記述されます。

この違いがどういう風に聞こえるのか知りたかったので、実際にhmから始まる単語「hmoob」(モン)と「mov」(食べ物)を交互に聞かせてもらったところ、hmのほうが「明るく」聞こえました。無声のmを少し練習しましたが、「発音できた」と思うには至りませんでした。

 

MacBook 12インチモデルに思うこと

お金が買える最高のラップトップだけど…

「お金が買える最高の」はApple製品がわりと占めてる立ち位置だと思う。iPhoneなんかが良い例で、「あなたがもし億万長者で、お金の心配は何もなく、欲しいスマートフォンならなんでも買える、となったとき、iPhoneより高いスマートフォンを買いますか?」ということ。iPhoneより高いスマートフォンは(たぶん)あると思うけど、iPhoneより良いスマートフォンはない。

iPadにしても、いくらお金を出してもこれより良いものは手に入らない。

たぶんAppleのマーケティングはまさにこの立ち位置を狙ってるんだと思うし、2015年に発売されて、今回更新された12インチのMacBookも、お金が買える最高のラップトップだと思う。

でもちょっと高いよねえ。

ものは手放しで絶賛するくらい素晴らしい。

従来のMacBook製品以上に無駄なものがなくなった筐体デザインは、たぶん向こう5年間はラップトップの理想形として他のメーカーに模倣されることになると思う。

新しいキーボードは、キートップが大きく、ストロークが短くなったことで、タッチスクリーンのような軽快な入力が可能になるはず。iPadMacを併用する人場合の違和感が大きく減ると思う。

Retinaディスプレイはまさに待望のもの。

なによりもHDDなし、光学ドライブなし、ファンなしの三拍子そろった「ゼロスピンドル」(ソニーVAIO type Uで用いたキャッチコピー)を(前衛的なことをしてキャッチーだが使い難い製品に仕上げるソニーではなく)、新技術や新しいデザインに対して非常に保守的で、無難な使用感のために性能や機能を犠牲にまでするAppleが実現したことは、とても意味があることだと思う。

トラックパッドは大きくなっているし、従来のものよりも感度も良くなっているという。Force Touchに関しては、それほど大きな変化は(今のところは)もたらさないかなという気がしているけど。(なぜかあまり報道されていなかったけど、Force Touchで使えるプレビューや辞書引き機能は、従来のMacBook AirMacBook Proでは三本指タップに割り当て可能。一部Force Touchでしか利用できない機能があるけど。)

今年(2016)の更新で残念だったこと

安くなると思ってた。初めてMacBook Airが出たときは、ほんとうに飛行機(Air)で世界中を飛び回っているような人が買うような値段だったけど、第二世代から値下げされて、今ではMacBookシリーズのエントリーモデルになっている。

Airと名のつく割にはもう、他のメーカーの出している薄型ラップトップに比べて特別軽いわけでも薄いわけでもなくなってしまい、「安いMacBook」であること以外に特徴がなくなってしまっていた。

だから、AirよりもAirらしいMacBookが出たときは、これがMacBook Airを置き換えるんだろうと思った。MacBook Airを置き換えるからには、値段もある程度安くないといけない。「第1世代は高い」という経験則と相まって、今年の更新では少し安くなるだろうと思っていたけど、ならなかった。

もう一つ。14インチモデルが出なかった。11インチのMacBook Airを今は使っていて、これよりも少し大きい画面が欲しいと感じている。もちろん新しいMacBookRetinaディスプレイだから、同じ大きさでも体感上ある程度広く感じられるだろうけど。(Retinaディスプレイなら、文字やその他の要素を小さく表示しても見やすいので、表示領域の節約ができる。)14インチモデルが出るという噂は目にしていたから、期待していたんだけど、追加されないまま更新されてしまった。

WWDCで何かあるかな

このタイミングで更新されたのが意外だったのは、6月にWWDCを控えているから。これだけ迫っていれば、当然WWDCで発表されるのだろうと思っていた。

WWDCではMacBook Proの発表があるかもしれないという噂がある。また、15インチと13インチの「MacBook」が出るという噂もまだ立ち消えてはいない。

あまり期待はしないほうがよさそうだけど、WWDCまでは待とうと思っています。

 

人の顔がわからないということ

小学校の頃からひとの顔が覚えられず、ずっと苦労しています。最近になって、それは記憶力の問題ではなく、相貌失認という先天性の病気かもしれないということをしりました。医師の診断を経たわけではありませんが、人の能力はひとそれぞれなので、顔を認識する能力が平均的なひとより顕著に低いのだということは、ありうるだろうとおもいますし、暗算が得意だとか、同時に複数のことをできるというような個人の能力をある程度自覚できるのと同じように、私の自覚もある程度信用できるものだと自分では思っています。

私の通っていた小学校は6年間、私の学年はずっとひとクラスでした。児童の出入りは時々あるから人数が増えたり減ったりはありましたが、クラスを分割する基準になる40人にたっすることはなく、36人前後をいったりきたりしていたおぼえがあります。

ずっとひとクラスで、クラス替えもなく、人数も36人前後ということで、通い始めて数ヶ月も経てばとうぜんクラスメイトの顔は覚えるだろうと母親は期待していたと思います。3年生になったある時、「まだ半分くらいしかわからない」と言って、驚かれたのを覚えています。どうしてこの時点で「この子は何かおかしい」と思って調べてくれなかったかと、時々悔やむこともあります。

幼稚園にいた時は、友達の顔がわからなくて困った、という記憶はありません。そのときは問題なかったのか、それともあまりにも幼くてそれすら認識しなかったのか、それともわすれてしまったのか、今となっては分かりません。

中学校、高校、大学と通って結局今まで一度も、クラスや部活動のメンバーを全員認識できるようになったという体験をできませんでした。

あるていど見慣れてくると、その人を見たらすぐにわかるようになるのですが、自分の脳がどうやってその人ことを認識しているのかわからないので、たとえば顔だけ見せられたら認識できないのかもしれません。

自覚している範囲では、私がひとを見分ける時に頼る情報は、まずコンテキスト。つまり、そのひとが、いつ、どこにいるか、誰と一緒にいるか、なにをもっているか、どんな服を着ているか、髪型はどうか、ということです。

これだけでひとを見分けようとするとあまりあてになりません。いちど、大学からの帰り、外で妹に声をかけられて、「誰だかわからない女の子に声をかけられた」と思い、適当にごまかして逃げてしまったことがあります。それが妹だったことは、後で本人から直接聞きました。妹を家の外で見ることは滅多にないので、認識できなかったんだと思います。

この「適当にごまかしてしまう」というのは、私の癖のようになっています。誰だかわからないひとが親しげに話しかけてきた時は、相手は私のことを知っているのだろう、しかし自分が認識できないのだろう、と考えます。そして、「相手は自分のことを知っているのだから、そしてこんなに親しげに話しかけてきているのだから、とうぜん相手も私が知っていると期待するはずだ」と考えて「自分が相手を認識できていない」ことを隠そうとしてしまうのです。

こういう問題があるので、ひととあうこと全般に恐怖心からくるストレスがあるのだと思います。

コンテキストの次に頼る情報は、歩き方で、私はこの点については平均的なひとよりもよく認識できると思います。まっすぐ立っていて動いてくれないとわかりませんが、歩いているとだいたい誰だかわかります。

だから、見分けにくいのは、相手が座っていたり、じっと立っていたりする時で、見分けやすいのは、全身の動きが良く見える、ある程度離れた距離にいて、歩いている時です。

その次は声です。「もしかしてあの人かな?」と思いつつ確信が持てない時は、その人が何か言うのを待って、集中して聞くようにしています。そうするとだいたいはわかります。

「コンテキストの外で、動いていなくて、声が聞こえない」という状況が一番弱いので、たとえば「向かいのテーブルに座っているひとと目があった」というような状況がひどく苦手です。距離が離れていると声をかけてもくれませんし、むこうは「目があっている」と思っているので、声を出すことなく「手を振る、笑顔を作る」などの動作で挨拶としてしまうのですが、私にはそれでは誰だかわからないのです。

コンテキストがかぶっていたせいでぜんぜん違う知らないひとに声をかけてしまったことは多々あります。そういうのは本当に恥ずかしくて、恐怖感があります。

この病気は「相貌失認」というそうで、Wikipediaに記事がありますが、それほど珍しい病気ではなく、人口の2%程度のひとが該当するのだそうです。

最近では、「人の顔を認識するのが苦手である」とか、「相貌失認という病気だ」というようふうにひとに話すこともありますが、これも相手にどう受け取られるのかよくわからないので、あまり積極的にはできません。怖いので。ぶっちゃけ、「わたしびょうきなんだよねー」とか言われても、困るでしょ。ただ、事前に言っておくことで「もしその人を認識できないことがあっても、わかってくれるだろう」という期待があります。

英語ではFace blindnessというそうで、なんてわかりやすいんだろう、と思います。「相貌失認」なんて知らないとわからないでしょう。Face blindnessならColorblindから類推して「ああ顔がわからないんだな」と思ってくれそうです。

なお、病院に行かない理由ですが、これは現在治療法がなく、「病気」認定をしてもらったところで誰かが助けてくれるわけでも国がお金をくれるわけでもないからです。