日本語の文の構造

注:この文章は、同じ筆者によって書かれた、The Japanese Sentence Structure – Nihongo Topicsの前半部分のセルフ翻訳です。

このサイトを訪れるトラフィックの多くが、日本語の主題と主語の違いを探している人たちであることに気づきました。

Introduction to Spoken Japanese コースに、すでにこれに関する記事がありますが、レッスンはコースの一部であることを意図しており、全ての人に向けたものではありません。そこで、今日は、これについてより多くの人に向けて説明してみたいと思います。

一般的な構造

まず、日本語の文の構造を簡単にまとめてみましょう。

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単語とその下にある部品名を揃えました。

文は「私もこれが書いたいな」で、意味は "I feel like I too want to buy this one" です。一つ一つについて説明します。

主題

文の主題は、その瞬間における会話の主題です。何について話しているかを示します。

主題は、動詞の主語であるとは限りません。会話の主題が分かっているときは、主題は黙示(主題部が省略される)です。主題がその直前の発言から変わらないときや、分脈からして主題が明らかな時などがこれに含まれます。

この例では、主題は「私」、つまり、"I" と指定されています。この文がその話者について話していることがわかります。通常、主題が話者であることは指定される必要はありません。次の部分で、なぜこの例ではそれが必要かもしれないのかがわかるでしょう。

係助詞

係助詞は主題を表す言葉の後に来ます。いくつかの種類があり、それぞれが主題に何らかの性質を追加する働きを持っています。係助詞はオプショナルで、必要なときだけ用いられます。

係助詞は自立することはできません。主題を表す言葉と一緒でなければなりません。従って、主題を指定する必要がないと思っても、係助詞を使いたければ、主題を表す言葉が必要です。

この例では、係助詞は「も」です。この係助詞は、後に続く文が現在の主題のみならず、会話の中の過去の主題についても言えるということを示します。例えば「私も」とだけ言えば、多くの場合、"me too" と言うのと同じ効果を持ちます。

主語・目的語

文における主語と目的語は、述語の主語と目的語です。ここで用いられている概念は、英語のものと概ね同一です。

主要な違いは、日本語では主語と目的語は頻繁に黙示されるということです。分かっているときは、言いません。英語では、"it" を使うことによって同様のことをします。

この例では、主語が明示されていて、目的語はありません。なぜなら、この文の述語は目的語を取らないからです。

主語は「これ」つまり "this one" と指定されています。

格助詞

主語・目的語の後には、「格助詞」と言われる助詞が続く場合があります。格助詞はその直前の単語が目的語なのか、主語なのか、あるいはそれ以外の何かなのかということを示します。

格助詞を追加することは文の意味に大きな変化を与えることはありませんが、主語・目的語を強調したい場合や、文を明確にするために必要な場合は、追加することが好まれます。

この例では、格助詞は「が」です。「が」は、直前の単語が述語との関係において主語であることを示します。

述語

英語では、この部分は動詞によって埋められます。日本語では、この部分は動詞、形容詞、名詞などによって埋められます。つまり、日本語では、色々なものが述語になることができるということです。述語が動詞でないときは、黙示の "is" があるものと考えると簡単かもしれません。

この例では、述語は「買いたい」です。この単語は to buy を意味する「買います」という動詞を活用した形ですが、この活用形は形容詞として働きます。全体としては「買いたい」は "is wanted to be bought" という意味です。

主語である "this one" とともに "this one is wanted to be bought" を構成し、さらに、主題である "I" を考慮に入れれば、 ”when it comes to me, this one is wanted to be bought" となります。

さらに、包括係助詞の「も」を加えて、"when it comes to me too, this one is wanted to be bought" となります。

ここまでくれば、文の意味を理解し、より自然な英文に変換することができます。"I too want to buy this one". 

終助詞

もう一つです。文の最後には終助詞があります。終助詞は、話者が、文で述べられていることに対して、利き手との関係上、どのような期待や視点を持っているのかを示します。

この例では、終助詞は「な」です。これによって、この発言全体が、話者の独り言であることがわかります。一応、「な」を "feel like" と訳しておきますが、英語でそれが独り言であることを示すにはなんていえばいいのかは私にはわかりません。

全体として、この例文は:

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I feel like I too want to buy this one.

日本語の動詞は原則動作動詞であり、辞書形の時制は未来

例えば、「今行くね」というとき、「行く」の自制は現在でしょうか、それとも未来でしょうか? 未来ですよね。「今から行く」ということです。「もう寝る」というのも、「今寝ている」という意味では無くて、「これから寝る」という意味です。自制でいうなら未来です。

このように、日本語の動詞は辞書形の時制が未来です。この辺が、外国人にとってはかなり混乱の元になっているようです。「日本語を勉強します」というので、これから勉強するのかな、と思ったら、すでに勉強中ということがとても多いです。というか、それを日本語で書いている時点で、「すでに始めてるんだろうな」というのは察しがつきますね。「日本語を勉強しています」あるいは「日本語を勉強中です」というのが正しい形になります。

もう一つの特徴として、日本語の動詞は動作動詞が原則だということがあります。例えば英語だと、動詞は大きく分けて状態動詞と動作動詞に分かれます。

動作動詞は、瞬間的な動作を表す動詞です。動作動詞の例としては、to eat とか to sit などがあります。動作動詞を辞書形(いわゆる現在形)でつかうと、その時制は必ずしも現在ではありません。I study Japanese の study も動作動詞ですが、これはその瞬間に日本語を勉強しているということではなくて、特に時期を指定することなく、習慣的に日本語を勉強しているということを表します。職業あるいはライフワークとして日本語の研究をしているような状態が想定できます。

じゃあ本当に今現在の動作を示したいときはどうするの? というと、現在進行形を使うわけです。 I'm studying Japanese とか、 I'm sitting here とか、そういうのは、「今現在、日本語を勉強しています」「今現在、ここに座っています」という意味になります。

余談ですが、いわゆる「現在時制」を、過去にそのままスライドしてもいわゆる「過去時制」にはなりません。「習慣的に日本語を勉強している」I study Japanese を過去にスライドすると「かつて(=過去の一時期において)、習慣的に日本語を勉強していた」ですが、これを表す英文は I studied Japanese ではなく、I used to study Japanese になります。じゃあ過去形の studied はなんなの? というと、これは「(過去の特定の動作として)日本語を勉強した」という意味になります。「特定の動作」というのは話者が何らかの具体的いな行為を念頭に置いているのが前提です。動作動詞は現在形では特定の動作を示しませんが、過去形になると示すわけですね。英語っていうのは本当にあほな言語だと思いますが、英語に限らず言語というのはそういうものです。

一方、状態動詞は、動作ではなく何らかの継続的な状態を表す動詞です。状態動詞の例としては、 to have とか、to like などがあります。これらの動詞は、辞書形の形(いわゆる現在形)で使った時、これは本当に、現在時制です。I have a dog なら、その瞬間、犬を飼っているということですし、 I like you であれば、その瞬間あなたが好きだということです。

さて、本題の日本語の話に戻ります。日本語の動詞は原則として動作同士です。英語であれば状態同士である to have に相当する日本語の動詞は「持つ」ですが、「今現在持っている」ということを表すのは「持つ」ではなく「持っている」ですね。*1 例えば、「パスポート持ってる?」とか。「パスポート持つ?」とは言いませんよね。もし言ったとしたら、「持ちたい?」という意味になり、これはまさしく未来時制です。

このように、日本語の動詞は、原型が未来の動作を表し、現在の状態を表すには「ている」を接続する必要があるのです。

ところで、「原則」動作動詞と書きましたが、状態同士もあります。それは「いる」と「ある」です。「パスポート持ってる?」を「ある」を使って言い換えるとき、「パスポートある?」と原型になります。「ある」という動詞は、現在の状態を表すのです。

 

*1:なお、書き言葉においては「持つ」が現在の状態を表す意味で使われる場合があります。「持つものと持たざる者」などです。これは英語の影響でしょうか?

Wikipediaの多言語版リンクは言語間で共通ではない

あけましておめでとうございます。

「日本の漫画のルーツを江戸時代とか平安時代くらいまで遡って求めるような話をたまに目にするけど、いまの漫画文化とは断絶していて、いまの漫画文化は欧米から入ってきたもののはず」みたいな内容の記事を書こうかと思って、「漫画」でググってみたんです。

そしたら、中国語版のウィキペディアの「漫画」の記事がヒットしたので、そこからジャンプして日本語版に行こうとしたんですけど……

漫画 - 维基百科,自由的百科全书

クリックしていただけるとわかりますけど、日本語版がない!

なのでとりあえずEnglishをクリックしてみたんですね。そしたら……

Comics - Wikipedia

日本語あるじゃん! 

言語間で共通になってればいいのに。

とりあえずこれくらいです。漫画のルーツの話は、ちょっとリサーチが必要そうなので、多分99年後とかに書きます。

半熟目玉焼きは両面焼くと美味しい

どうして今まで試さなかったのだろう。

お皿も汚れないし、黄身が溢れること無く完全に口の中に入ってからとろける。

テフロン加工のお鍋(フライパンがないので)にふた玉落として、中火で白身が浮いてくるまで待つ。

浮いてきたら一度日から離して、浮いてきたところを持ち上げてひっくり返してさらに数分間。

最後はおさらの上にひっくり返したらフライ返しもいらない。

美味しかったです。

タッチスクリーンの操作は常に1次元でなければならない

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 iPhoneを使っていて最も気分が悪いことの1つは、このアップスイッチャーを表示した状態で、間違えてアプリを終了してしまうことです。

なぜこのような間違いが生じるかと言うと、この画面上において、指を左右に滑らせてアプリを選ぶと言う操作が必要だからです。

この左右の操作の際に、指が少しでも上下にずれてしまうと、慣性に従ってそのままアプリが上に飛んでしまう行ってしまう場合があります。

解決策としては、タッチスクリーンの精度を上げるとか、あるいはAI的な処理によって、ユーザが本当に意図している操作は何か予測するような仕組みを入れるといったことが考えられますが、そもそも同じ画面に置いて指を左右に滑らせるか、上下に滑らせるかによって異なる操作が行われると言うUIそのものが悪いのではないかと思います。

実際人の指と言うのは、スマートフォンを持っている際に、画面上で水平あるいは垂直に動かすのではありません。自然な動作は親指の付け根を中心とした円弧ような動作です。つまり親指の動きと言うのは、タッチスクリーン上では斜めになる傾向があるということです。

さっきのiOSのバージョンでは、同じ上において他店の動作と言うこの動作が混在している事はあまり多くありませんでした。

ホームスクリーンにおいてもアプリは横方向に並んで行今のように画面を下に下すと検索画面が出てくるといったような事はありませんでした。

アップスイッチャーに関しても、初めて搭載されたバージョンにおいては、上下の動きはなく、アプリを終了する際はアプリを長押しして出てきた×ボタンを押すと言う操作でした。

 iOSは、バージョンが上がることにどんどん複雑になっていて、操作ミスが発生しやすくなっているようです。もう少しシンプルに保つことはできなかったものでしょうか。

勝間和代さんが音声入力で快適にブログをかける理由

最近勝間和代さんがはてなブログを始めて、親指シフトに代わって、今度は音声入力をプッシュしているようです。

親指シフトをやめたと言うわけではないみたい試すけどね。本人のブログには音声入力をすることによって、ブログを書く効率が3倍になったと書いてあります。

多くの人の感覚では、音声入力はそれほど快適な入力方法ではないと言う所では無いでしょうか。

私も、音声入力は今も使ってみてはいますが、これでブログを作成する効率が3倍になるかと言うと、そこまでの事はさすがにないだろうというのが正直な感想です。

認識がきちんとうまくいくときは当然指でタイプするよりも早いのですが、入力ミスもあるし、意外ときついのが、キーボードを使ってタイプするような長い文章を入力していると、喉が疲れてくるというようなことなんです。

思えば、このくらいの分量の話をするのは、普段の生活ではあまりなく、あるとすれば、何かの機会に講演などをしている時位では無いでしょうか。

それでは、なぜ勝間和代さんが音声入力で快適にブログを書くことができるかというと、おそらくそれは単に、彼女のブログの内容が、音声入力に適しているからではないかと思います。

音声入力できついのは、URLの挿入などですが、勝間和代さんのブログにURLは少ないようです。また、私を頻度の少ない専門的な単語や、固有名詞が入ると認識精度が極端に悪くなりますが、勝間和代さんのブログでは、あまり専門的な内容は多くなく、認識精度が高い単語が多いように見受けられます。

他の?ブロガーのように、専門的な話がおーいブログだと、勝間和代さんが言うように、効率的に音声入力をすることができないのではないかと思います。

この文章はiOSの音声入力によって入力されました。(今回はわりとうまくいったので、あえて構成せずにご認識も残しておきます。) 

古文と漢文はいらないとか言う増田がバズっていますが

私も全く同意見というか、私はむしろ数学と国語と英語だけでいいと思っています。学校に他の科目があるのは構わないけれど、それらは全て選択科目にするべきではないかと思っています。

何故かと言うと、人生において必要になる学問の内容や、その人が学びたい、あるいは、興味がある学問と言うのは、全くバラバラだからです。

その上で、何を学ぶのにも常に必要になるのは、数学と言語能力です。

今の日本において必要な言語と言えば、日本語と英語と言うことになりますし、数学はそのまま数学です。

もちろん他の例えば歴史とか科学といったような科目も重要だとは思いますが、日本人の中に自分の数学の力と日本語の能力と英語の能力に満足している人というのはどのくらいいるのでしょうか。すべてに満足している人はほとんどいないのではないでしょうか。もっと自分が英語が得意だったらいいのにとかあるいは数学が得意だったらいいのにJALとかもしくは日本人なのに日本語ができないなどと嘆いている人も多いです。

そのような現状があるのに、他の科目にまで手を出す必要は無いのではないかと言うことです。もちろん人によっては例えば特別歴史に興味があって、歴史の勉強したいと言うことがあるでしょうから、そういう人は選択科目の中から歴史を選んで勉強できるようになっていれば  充分ではないでしょうか。

いずれにしても大学に行ったら専門を選ぶ必要が出てきます。そうなったときに必要なのは新しい情報を学ぶ能力です。つまりそれは日本語の能力と英語の能力と数学の能力と言うことになるわけです。

大学受験も、必修は3科目だけで良いのではないでしょうか。