ローマ字で小さいつ「っ」をどのように表現すべきか
私がやっている日本語文法サイト「Nhongo Topics」では、ローマ字を標準の日本語表記方法として採用しています。
理由は色々ありますが、具体的には以下の記事にまとめてあります。
Why I use romaji instead of hiragana – Nihongo Topics
中でも重要なのは、「文法を説明するにあたってローマ字の方が都合が良い」ということと、「そのままローマ字入力が可能」ということです。
そういうわけで、単語も基本的にローマ字で表記しているわけですが、中にはどのようにローマ字化すべきか悩むケースもあります。その一つが、「っ」いわゆる「小さいつ」です。
後に続く死因がわかっている場合は、その子音を二重子音にしてしまえばいいのですが、接頭辞「ぶっ」や、接中辞「っ」などは、後に続く子音が特定されていません。
まだやっていませんが、今後これらの接辞を取り上げて解説する場合に、項目名として、あるいはその接辞のスペリングとして、どのようなローマ字を書くべきか、という問題があります。
接頭辞「ぶっ」は、様々な動詞の頭について、その動作の様子を強調したり、乱暴さを表現する機能があります。「ぶっ壊す」や「ぶっ倒れる」などがその例です。
これらの単語を普通にローマ字で表現する場合、"bukkowasu" と "buttaoreru" になりますが、ここから接頭辞「ぶっ」を抜き出そうとすると、片方が "but" もう片方が "buk" になり、一貫しません。
このような場合、ローマ字では、「xtu」と表記することにするしかないと思います。"xtu" にしておけば、それぞれ以下のようになります。
- buxtukowasu
- buxtaoreru
これなら、どちらも一貫して「buxtu」という接頭辞を抜き出すことができます。
しかしこれで解決かと思うと、「ぶん殴る」という例があります。まあこれは平仮名でも一貫してないわけですが。
これ、「のちに続く子音をもう一つ重ねる」というルールなら、"bukkowasu", "buttaoreru", "bunnaguru" で一貫しそうに見えますね。ただしNihongo Topics では、「ん」を一貫して "nn" とn二つで表記し、「このままパソコンやスマホでローマ字入力できる」ことを謳っているので、この方式は採用できません。"bunnaguru" をローマ字入力でそのまま使うと「ぶんあぐる」になってしまうので。*1
結局のところ、"xtu" を基本とし、「ただし、のちにnが続く場合は "nn" とする」とするのが妥協点かなと思うところです。
英語に長音が存在しないと言われる理由
音声と音韻
音声とは人の発音する音をそのまま音として認識する場合の表現です。IPAでは、音声は[]で括って表記されます。
一方、音韻とは、その言語において弁別がある場合のみ区別し、弁別がない場合は区別せずに同じ記号を用いる表記です。IPAでは、//で括って描かれます。
長音の区別がある言語とない言語
長音と短音の区別がある言語は日本語以外にはあまりありません。私が知っているのはハワイ語くらいです。英語には長音と短音の区別はありません。
英語にも実際には長音として発音されやすい音とそうでない音があります。しかし、それをもって意味が弁別されておるわけではなく、長音を短く発音しても問題なく理解されます。
なぜ英語由来のカタカナ語に長音があるのか
長音で弁別があるフリをした方が、多数の英単語をカタカナで書き分けることはできるので便利です。
それに、いくつかの音は日本人の耳には長音のように聞こえるのです。もちろん、英語には長音と短音で意味上の弁別はないので、英語を喋ってる本人はそんなこと知りません。
なぜ英和辞典を見ると長音と短音で弁別しているのか
IPAには長音記号があり、それをつかうと母音本体をかき分けなくても区別できる場合があり、いくつかの英和辞典はその方式を採用しています。
要するにカタカナに長音が存在するのと同じ理由で、発音記号にも長音が用いられているのです。
悪い習慣だと思います。
「寝そべる」は「遊ぶ」「しそびれる」と共通の語源があるのではないだろうか
*結論の出ない話です。
「寝そべる」が「寝」と「そべる」に分解できることはそれほど疑わしくないだろう。「寝る」の語根が「ね」なのであるし、「体を横たえる」という意味も共通している。
では「そべる」にどんな意味があるのかというと、これがよくわからない。
「寝る」+「そべる」=「寝そべる」なのであれば、
「寝そべる」ー「寝る」=「そべる」もまた成立するはずだけど、「寝る」と「寝そべる」の違いが釈然としない。なんとなく、「ただ寝るだけではなく、体の力を抜いて楽にする」というイメージがある。
同じようなイメージを持つ後に「遊ぶ」がある。これは子供が一生懸命に走り回っていたりするイメージもあるけど、将棋で働いていない駒のこと「遊んでいる」とか、あるいはマージンのことを「あそび」ということがあるように、「力が加わっておらず、ゆったりしている様子」と表現できそうな意味がある。
さらに、「しそびれる」という言葉があって、これはもちろん「する」と「そびれる」からできているのだけど、多分「そびれる」は、「意図したタイミングで力を加えることをせず、結果的に放置してしまう」ということではないだろうか。
この「ねそべる」「あそぶ」「しそびれる」に共通する「力を加えず、あるがままにする」という意味は、この三つに共通する「sob」という部分に宿っているんではないかな、とふと思ったところです。
一応、軽くググって見ましたが否定的な材料も肯定的な材料も見つかりませんでした。
エスペラントの宗教性
このまとめを不意に目にして、少し思うことがあったので書きます。しかしこのまとめ、もう7年も前のものなんですね。今更口出したところで、「今更何言ってんだこいつ」感が拭えないでしょうから、議論に参加するわけではないというつもりで書きます。
エスペラントを宗教と呼ぶべきではないと思いますが、宗教性があるとすれば、あるいは宗教だと仮定すれば、その最も重要な教義は「人は言語を作ることができる」ということになると思います。
自然言語と人工言語
基本的に、人が普段話している言語は全て自然言語です。我々日本人は、学校に行く前から日本語を話し始めますし、親から日本語を教わったと言っても、親は子供に対して文法の講義をするわけではありません。
自然言語というのは、自然に発生し、だれかが作ったルールに従うことなく、それでも自然に発生したルールになぜか人々が自然に従ってしまうという現象の上に成り立っています。
自然言語においては、それらの自然発生したルールの一切を、人々は自覚することなく使いこなしています。「過去形」という文法用語を知らなくても、「ご飯食べた?」と過去形で聞けば、過去について聞いているのだということが瞬時に伝わります。ここに、意識的なルールは媒介しておらず、全て直感で行われます。
人間はテレパシーを使っているわけではないので、人間同士が会話で意思疎通をするとき、話が通じるのはその会話で用いられている言語に何かのルールがあるからだということがわかります。このルールを解き明かすのが言語学者です。
言語学者は、人々が無意識に発する音声を解析し、その言語で使われている音が何種類あって、どのようにして区別をつけているのか(声帯振動のタイミング、舌の位置、唇の閉じ具合、鼻腔の閉鎖、などなど)を明らかにします。
また、ある言葉がどのような意味・機能を持っているのか、実際の会話を分析することで明らかにします。日本語の語尾につく「ね」「よ」「か」がそれぞれどのような機能を持っているのかを研究することなどがその例です。
言語学者はこのようにして言語を研究し、発音、単語、文法を明らかにします。その一部は、その言語が話されている国の学校で教えられることもあります。日本では日本語が学校で教えられています。
つまり、自然言語は、自然に発生し、誰もそのルールを知ることなくコミュニケーションツールとして100%機能し、それを学者が分析することでルールを明らかにするというものなのですが、この順番を逆にしたものが人工言語です。
人工言語は、実際にそれが話されるということが自然に発生することなく、まず発明者がルールを考案します。モールス信号を発明するようなものですが、モールス信号と違い、人のコミュニケーションにおけるあらゆる情報伝達の仕組みを決めなければならないのですから、そのルールの数は桁違いになります。
「英語では動詞が先にきてその後に目的語がくる」「日本語では動詞が目的語の後にくる」という知見があったとして、それを用いて、「それでは私が作る言語では、英語と同じように目的語が先に来ることにしよう」と言ったようなルールを、一つひとつ定めて行きます。
エスペラントは、自然言語を参考にしながら、このようにしてルールを組み立てて設計されました。
ここでの問題は、私たちはまだ、人間の言語の仕組みを完全に解明できていないということです。つまり、言語が言語として機能するために、どのようなルールが必要か、明らかになっていないのです。
さて、このようにしてできたエスペラントは、本当に言語として十分な機能を備えているのでしょうか? エスペラントが自然言語ほど完全なルールを備えていないことは明らかです。単語ひとつとっても、英語やフランス語などへの訳語が提供されているだけで、その単語の意味を直感的に知るグループというのは、存在しません。
例えば、日本語で「犬」と言えば、私たち日本人は、その意味を直感で知っています。「犬」という言葉の意味を理解するために、辞書を引いたり、あるいは生物学的な知識は必要ありません。同様に英語でも、dog と言えば、英語ネイティブの人たちはその意味を直感で知っています。「なぜこれが犬だとわかるのですか?」と犬を前にして言われても、「このようなものを犬と呼ぶのです」としか答えようがありません。これが「直感でわかる」ということですが、エスペラントでは、単語の意味は英語などの訳語で提供されています。エスペラントで犬は hundo と言いますが、この hundo の意味を直感的に知っている人は、地球上、誰もいないのです。
このように、自然言語と比べると明らかに不確定性の多いエスペラントが、それでも言語として十分に機能するかどうかは、わかりません。今後の研究で、あらゆる自然言語に見られる機能が、エスペラントにかけていることが明らかになるかもしれないし、ならないかもしれませんが、いまの時点で「機能する」と信じるためには、「信じる」しかないわけです。
なお、私は、後に述べる理由から、エスペラントは「機能していない」と考えています。
エスペラントの母語話者
「エスペラントを直感で理解できる人はいない」と書くとエスペラントの母語話者の存在が反証になると考える方がいるかもしれません。
しかし、「エスペラントの母語話者が話しているエスペラント」と本来のエスペラントは、おそらく異なる二つの言語です。
このように考える理由には、人の言語獲得能力があります。
ピジン言語とクレオール言語
エスペラントの動機が、母語のことなる人同士でコミュニケーションが取れるようにすることだったのと同じように、異なる言語の人同士で会話をしなければならない場合というのは実際に数多くあります。
そのような場合に、ピジン言語と言われる中間言語が作り上げられることがあります。
ピジン言語は、他の自然言語とは違い、言語としての完全な機能を備えていません。交易のために発達したピジン言語であれば、交易に必要な機能しか発達しないでしょう。
しかし、中には、ピジン言語を話す親の元で子供が育つ場合があります。
そのような子供がある程度そのコミュニティに存在するとき、その子供たちは、自分たちが親から習得した言語で会話をするようになります。この時、この子供たちが話す言語は、親たちが話していたピジン言語よりも機能が発達していることが知られています。このようにしてできた言語を「クレオール言語」と言います。
親が話していた言語以上のルールを、子供は誰にならうでもなく習得するわけです。なぜこのようなことが起こるかというと、子供が母語を習得する際、親の話す言葉などの、環境からのわずかなインプットから、その言語を再構成してしまうためです。言語学では、人間の言語は後天的に習得されたものだけではなく、先天的に脳が持っている機能によっていると考えられていますが、そのように考える根拠の一つが、この、「わずかなインプットからより完全な言語を習得する」という現象です。
つまり、エスペラントを母語話者として育った子供が習得したその「エスペラント」という言語は、ピジン言語と、それを土台にしたクレオール言語が異なる言語であるように、異なるのではないか、ということです。
実際に、エスペラント母語話者の話すエスペラントには、その親が話す本来のエスペラントとは文法的な違いが見られることが知られています。
母語話者であれば、 hundo の意味は直感によって理解するところでしょう。しかし、エスペラント母語話者の話すエスペラントが、いわゆるエスペラントとは別の言語であるならば、それは「エスペラントが言語として機能している」ことの証明にはならず、むしろ、「エスペラントがピジン言語のように不完全な言語である」ことすら示唆するものです。
エスペラントの宗教性
エスペラントは、「人は言語を作ることができる」という仮定のもとに考案され、その仮定のもとに使用されてきました。単語の意味は全て訳語を介して定義され、誰もその意味を直感的に知っている人はいませんでした。エスペラントによるコミュニケーションは、常に翻訳を伴うものでした。いわばGoogle翻訳を介して会話をしているようなものです。しかし、コミュニケーションの当事者は、「通じている」と信じているわけです。もっとも、信じていないまま、やっている人もいることでしょう。私がそうです。この言語が、言語として機能していることは、今後も証明されないでしょう。
ひらがなはあいうえお順に教えるべきではないのではないか
YouTubeなどでひらがなを紹介する動画などを見ていると、ひらがなをあから順に学ばせようとするものが多いようだ。
ひらがなは50字くらいあって、ラテンアルファベットに比べると字数が多いのみならず、一つ一つの形が複雑だ。
その上、「書き順」という厄介なものがあって、ある程度正しいストロークで書かないと判別が困難な字があるなど、正直、教えるにはハードルが高い。
ひらがなひとつ一つは一つの音を表すというけれども、「ん」が実際には様々な違う音として現れるように、「一つの音」を表しているように感じるのは日本人だけだ。この辺も説明していく必要がある。
思うに、発音の問題は、ひらがなを教える前に先にローマ字を教える段階で説明しておき、同一視すべき発音のバリエーション(複数種類の「ん」など)、逆に同じに聞こえるが区別しなければならない音(短母音と二重母音など)などを理解してから、ひらがなにはいるべきなのではないか。
さらに、ひらがなだけ教えても、発音記号を教えるようなことになってしまっては面白くない。どんな言語でも、アルファベットは単語と一緒に学んだ方が良いだろう。従って、ローマ字である程度日本語を教えておいて、ある程度日本語が理解できるようになったら、徐々にひらがなを導入していくようにすると良いのではないか。
徐々に、というのは、必要なものから、という意味だ。例えば、形容詞を学んだ段階で、形容詞語尾の「い」は認識できなければならない。この時がひらがなの「い」を習得するのに良いタイミングだろう。
「い」を教える時、「い」の直前の母音が「e」(エ段)であるとき、「い」は「え」のように聞こえることに留意する必要がある。
また、「です」の2文字は真っ先に教えることができる。動詞の語尾になる「ます」も同様だ。
一方、従来最初に教えられることが多い「あ」はあまり使い所がない。「です」「ます」「い」の5文字、辞書形で動詞の語尾になる「うくすむる」の5文字、最初に教えるべきであろう接続詞「し」「から」「けど」の5文字、「ません」の「せ」「ん」でさらに2文字。「でした」の「た」で1文字。終助詞「ね」「よ」でさらに2文字。係助詞「も」「は」「って」で3文字追加。格助詞「が」「を」「に」「で」でさらに3文字。ここまでで合計26字。ひらがな全体のおよそ半分。「あ」を教えるのはこれ以降だろう。
ひらがなはあいうえお順に教えるのではなく、必要なものから少しずつ、順々に教えていくべきだと思う。
iOS の読み上げ音声の言語リストに存在しない中国語音声が表示されるバグ
Yu-shu なんていう音声は存在しません。