意識の数は一人ひとつとは限らない

人には意識があるとみんな信じていますよね。論理的には実は自分以外の他人に意識があるかどうかは知るすべがないのだけど、とりあえず自分には意識はあるし、他の人間も自分と同じように意識があるように見える。

もし自分以外が全て意識のないロボットだったら? なんていうのは、割と古典的で、多くの人が一度は考えたことがあるんじゃないかと思います。

ところで、自分以外の人に意識があるかどうかわからないと考えるのであれば、「自分だけに意識があり他の人にはない」と「全員自分と同じように意識がある」の二択である必要はないですよね。あの人には意識があって、この人には意識がない、というような想定も論理的には可能です。

以前友人とこんな話をしたことがあります。『自分の意識はいつも連続していて、他の人と入れ替わってしまうことはない。だから、自分が自分であることには何かの必然性があるはずだ。』

この話に対して私が思うのは『もし他の人と入れ替わってしまうことがあった場合、入れ替わりに気づくことはできるだろうか』ということです。意識が入れ替わっても、入れ替わり先の人は記憶を脳に保持している以上、結局は連続性を感じられるはずです。また、入れ替わる前の人の記憶はないので、入れ替わったということに気づくチャンスはないですね。ということは、実は入れ替わりはいつでも起こっているかもしれないのです。

同じように、ある人体から突然意識が消えたり、あるいは突然意識が宿ったりしても、本人も他人も、それに気づく方法はありません。

この話のキモは、意識はその宿る人が持つ情報にしかアクセスできないということです。記憶は肉体に保管されていて、意識自体には記憶はありません。脳という物理的な記憶媒体がないからです。いわば意識というのはコンピュータの中を走っているプロセスのようなもので、必要に応じて入出力や記憶媒体にアクセスはできるけれども、自分自身はなんの情報も保持できないし、知覚もできない。それどころか、肉体が持つ全ての情報にアクセスできるということでさえないのです。

ということは、あるプロセスが感知できないところで他のプロセスが同じコンピュータ上を走っているように、人間にも複数の意識が同時に宿っていることも、当然想定できます。

ある一人の人の中に、ふたつの意識が宿っていて、それぞれがそれぞれ自身を、その人の唯一の自意識だと感じているという状態です。他の意識が同じ人体に宿っているかどうかを知覚することはないので、この可能性はまず否定できません。

『意識があるのは自分だけなのではないか』『意識がない人もいるのではないか』どころか、あらゆる人体にはあらゆる数の意識が宿っている可能性があり、それがいつでも消えたり現れたり、あるいは他の人と入れ替わったりしている可能性があり、我々はそれを確かめることも否定することもできない、という思いつきでした。