エスペラントの宗教性
このまとめを不意に目にして、少し思うことがあったので書きます。しかしこのまとめ、もう7年も前のものなんですね。今更口出したところで、「今更何言ってんだこいつ」感が拭えないでしょうから、議論に参加するわけではないというつもりで書きます。
エスペラントを宗教と呼ぶべきではないと思いますが、宗教性があるとすれば、あるいは宗教だと仮定すれば、その最も重要な教義は「人は言語を作ることができる」ということになると思います。
自然言語と人工言語
基本的に、人が普段話している言語は全て自然言語です。我々日本人は、学校に行く前から日本語を話し始めますし、親から日本語を教わったと言っても、親は子供に対して文法の講義をするわけではありません。
自然言語というのは、自然に発生し、だれかが作ったルールに従うことなく、それでも自然に発生したルールになぜか人々が自然に従ってしまうという現象の上に成り立っています。
自然言語においては、それらの自然発生したルールの一切を、人々は自覚することなく使いこなしています。「過去形」という文法用語を知らなくても、「ご飯食べた?」と過去形で聞けば、過去について聞いているのだということが瞬時に伝わります。ここに、意識的なルールは媒介しておらず、全て直感で行われます。
人間はテレパシーを使っているわけではないので、人間同士が会話で意思疎通をするとき、話が通じるのはその会話で用いられている言語に何かのルールがあるからだということがわかります。このルールを解き明かすのが言語学者です。
言語学者は、人々が無意識に発する音声を解析し、その言語で使われている音が何種類あって、どのようにして区別をつけているのか(声帯振動のタイミング、舌の位置、唇の閉じ具合、鼻腔の閉鎖、などなど)を明らかにします。
また、ある言葉がどのような意味・機能を持っているのか、実際の会話を分析することで明らかにします。日本語の語尾につく「ね」「よ」「か」がそれぞれどのような機能を持っているのかを研究することなどがその例です。
言語学者はこのようにして言語を研究し、発音、単語、文法を明らかにします。その一部は、その言語が話されている国の学校で教えられることもあります。日本では日本語が学校で教えられています。
つまり、自然言語は、自然に発生し、誰もそのルールを知ることなくコミュニケーションツールとして100%機能し、それを学者が分析することでルールを明らかにするというものなのですが、この順番を逆にしたものが人工言語です。
人工言語は、実際にそれが話されるということが自然に発生することなく、まず発明者がルールを考案します。モールス信号を発明するようなものですが、モールス信号と違い、人のコミュニケーションにおけるあらゆる情報伝達の仕組みを決めなければならないのですから、そのルールの数は桁違いになります。
「英語では動詞が先にきてその後に目的語がくる」「日本語では動詞が目的語の後にくる」という知見があったとして、それを用いて、「それでは私が作る言語では、英語と同じように目的語が先に来ることにしよう」と言ったようなルールを、一つひとつ定めて行きます。
エスペラントは、自然言語を参考にしながら、このようにしてルールを組み立てて設計されました。
ここでの問題は、私たちはまだ、人間の言語の仕組みを完全に解明できていないということです。つまり、言語が言語として機能するために、どのようなルールが必要か、明らかになっていないのです。
さて、このようにしてできたエスペラントは、本当に言語として十分な機能を備えているのでしょうか? エスペラントが自然言語ほど完全なルールを備えていないことは明らかです。単語ひとつとっても、英語やフランス語などへの訳語が提供されているだけで、その単語の意味を直感的に知るグループというのは、存在しません。
例えば、日本語で「犬」と言えば、私たち日本人は、その意味を直感で知っています。「犬」という言葉の意味を理解するために、辞書を引いたり、あるいは生物学的な知識は必要ありません。同様に英語でも、dog と言えば、英語ネイティブの人たちはその意味を直感で知っています。「なぜこれが犬だとわかるのですか?」と犬を前にして言われても、「このようなものを犬と呼ぶのです」としか答えようがありません。これが「直感でわかる」ということですが、エスペラントでは、単語の意味は英語などの訳語で提供されています。エスペラントで犬は hundo と言いますが、この hundo の意味を直感的に知っている人は、地球上、誰もいないのです。
このように、自然言語と比べると明らかに不確定性の多いエスペラントが、それでも言語として十分に機能するかどうかは、わかりません。今後の研究で、あらゆる自然言語に見られる機能が、エスペラントにかけていることが明らかになるかもしれないし、ならないかもしれませんが、いまの時点で「機能する」と信じるためには、「信じる」しかないわけです。
なお、私は、後に述べる理由から、エスペラントは「機能していない」と考えています。
エスペラントの母語話者
「エスペラントを直感で理解できる人はいない」と書くとエスペラントの母語話者の存在が反証になると考える方がいるかもしれません。
しかし、「エスペラントの母語話者が話しているエスペラント」と本来のエスペラントは、おそらく異なる二つの言語です。
このように考える理由には、人の言語獲得能力があります。
ピジン言語とクレオール言語
エスペラントの動機が、母語のことなる人同士でコミュニケーションが取れるようにすることだったのと同じように、異なる言語の人同士で会話をしなければならない場合というのは実際に数多くあります。
そのような場合に、ピジン言語と言われる中間言語が作り上げられることがあります。
ピジン言語は、他の自然言語とは違い、言語としての完全な機能を備えていません。交易のために発達したピジン言語であれば、交易に必要な機能しか発達しないでしょう。
しかし、中には、ピジン言語を話す親の元で子供が育つ場合があります。
そのような子供がある程度そのコミュニティに存在するとき、その子供たちは、自分たちが親から習得した言語で会話をするようになります。この時、この子供たちが話す言語は、親たちが話していたピジン言語よりも機能が発達していることが知られています。このようにしてできた言語を「クレオール言語」と言います。
親が話していた言語以上のルールを、子供は誰にならうでもなく習得するわけです。なぜこのようなことが起こるかというと、子供が母語を習得する際、親の話す言葉などの、環境からのわずかなインプットから、その言語を再構成してしまうためです。言語学では、人間の言語は後天的に習得されたものだけではなく、先天的に脳が持っている機能によっていると考えられていますが、そのように考える根拠の一つが、この、「わずかなインプットからより完全な言語を習得する」という現象です。
つまり、エスペラントを母語話者として育った子供が習得したその「エスペラント」という言語は、ピジン言語と、それを土台にしたクレオール言語が異なる言語であるように、異なるのではないか、ということです。
実際に、エスペラント母語話者の話すエスペラントには、その親が話す本来のエスペラントとは文法的な違いが見られることが知られています。
母語話者であれば、 hundo の意味は直感によって理解するところでしょう。しかし、エスペラント母語話者の話すエスペラントが、いわゆるエスペラントとは別の言語であるならば、それは「エスペラントが言語として機能している」ことの証明にはならず、むしろ、「エスペラントがピジン言語のように不完全な言語である」ことすら示唆するものです。
エスペラントの宗教性
エスペラントは、「人は言語を作ることができる」という仮定のもとに考案され、その仮定のもとに使用されてきました。単語の意味は全て訳語を介して定義され、誰もその意味を直感的に知っている人はいませんでした。エスペラントによるコミュニケーションは、常に翻訳を伴うものでした。いわばGoogle翻訳を介して会話をしているようなものです。しかし、コミュニケーションの当事者は、「通じている」と信じているわけです。もっとも、信じていないまま、やっている人もいることでしょう。私がそうです。この言語が、言語として機能していることは、今後も証明されないでしょう。