「の」はコピュラであり、所有を表す助詞と考える必要はない

「私の本」などの例が亜あるので、ついうっかり「『の』は所有マーカーである」なんて言ってしまいそうになる。

そして、実際に一般的な日本語の教科書や、ウィキペディアなどのウェブ上のドキュメントにも大抵そのように書いてある。

しかし、後述するように、これを所有を表す助詞と考える必要はない。「の」は所有マーカーではなく、コピュラである、という話をこれからします。

コピュラとは

コピュラは、英語の "is" など、二つの名詞を並べてその名詞同士の関係を表現する語です。典型的にはイコールの関係か含有関係を表します。John is a man. で、「ジョンは人です」という文になりますが、この文では、コピュラ "is" は、「ジョン」が「人」と言われる集合の一員であるということを表しています。

日本語では「だ」と「です」がそれにあたると言われています。先の「ジョンは人です」というのはまんま同じですね。もうちょっと日本語っぽい例を出せば「星が綺麗ですね」などを挙げることができます。「星」と「綺麗」を結びつけて、「星」が「綺麗」という性質を備えている、あるいは、「綺麗」と言われるものの集合のメンバーの一員であるということを表現しているわけです。

なお、「綺麗です」は形容動詞の活用形であるとかいう議論はここでは扱いません。

コピュラのもう一つの特徴は、それが文において動詞の代わりをするということです。動詞は、文において、一つ以上の引数を取り、そのうち一つがある動作を行うなどと言ったことを表すと同時に、複数の引数がある場合は、引数同士の関係を表したりもします。例えば、John eats cats などですね。この動詞 "eats" は、「食べる」という動作を表していて、ここでは「ジョン」が「食べる」という動作を行うことを表現するとともに、もう一つの引数である「猫」がジョンによって食べられる存在であるということを表しています。

動詞がすでに引数同士の関係を示す機能を備えているので、さらにコピュラは不要というわけです。実際、英語でも、動詞が述語になる文ではコピュラは用いられません。

日本語ではどうかというと、同じ傾向です。「死神はりんごしか食べない」というぶんには、コピュラはありません。これが述語が名詞だと、「死神が食べるのはリンゴだけだ」となり、コピュラ「だ」があらわれます。

「の」の機能

「の」の話に戻ります。なんで「の」がコピュラだと言えるかというと、「の」がコピュラと同じように、「述語が名詞(またはそれに類する語)の時だけ現れる」という特徴があるからです。

「の」は述語を取らないだろ? という向きもあるかと思いますので、以下の例をご覧下さい。

  • 出身が東京の人
  • 身長が179センチ以上の人
  • 美人の女性秘書
  • 成績がクラスで一番の人
  • 親がアメリカ人の先輩

あえて真ん中に「名詞+の+名詞」という、従来「『の』は所有マーカーである」という誤解を生んできた例をあげておきました。

それぞれ、以下のように変換できることがわかると思います。

  • 東京から来た人
  • 身長が179センチを超えている人
  • 可愛い女性秘書
  • 成績がクラスで一番良い人
  • 親がアメリカから来た先輩

ここからわかるのは、「『の』が受けているのは単なる名詞ではなく、文である」ということと「名詞だった部分を動詞や形容詞で言い換えると、「の」が消える」ということです。

「の」が「だ」と同じ条件で消えたり現れたりすることがわかります。

また、意味を考えても、一般的に言えることは「文を受けて、修飾節を作る」程度しかしかありません。「所有」が成立しているように見える例だけを取り立てて「所有マーカーである」と考える合理性はありません。「修飾節である」という説明で全て成り立つのですから。「私の本」についても「本」を「私だ」が修飾していると考えて、全く差し支えがありません。

「の」は連体修飾節専用のコピュラである

「の」が所有マーカーであると考える特段の理由はなく、「の」が現れたり消えたりする条件は、コピュラのそれと全く同じであることがわかりました。「の」は連体修飾節専用のコピュラであると考えるべきです。

なお、同じ理由で、「『な』は連体修飾節専用のコピュラで、述語になる単語がいわゆる形容動詞語幹の時に使われる」と言えます。