言語の対称性とかに関する思いつきのメモとか+雑記

雑記

2012年のMacBook Airのバッテリーがエラー表示を出してる。バッテリーの持ちはまだいけそうな程度には良いのだけど、気になる。Appleの公式ヘルプページによると、このエラーは出たままの状態でも使い続けることができる類のものらしい。

最近鬱憤を感じるので何か書こうと思ってはてなブログを開いたらミャオ語について書いた記事にコメントが付いていて嬉しかった。

最近あまり楽しいことがない。

日本語ブログのアクセスが増えている。今月は記録更新できそう。

言語の対称性について

英語でも日本語でもミャオ語でも、とにかく人間が話す自然言語は同等の機能を持っているはずで、このアサンプションには証明はないけれど、人間の脳の情報処理能力が言語・民族・人種などを問わずだいたい同程度だということは統計的にわかっていて、もし人類の脳の情報処理能力がが同じなら、言語によって伝達される情報の種類、質、量は同じであるはずだ、とか、あるいは親が白人だろうが黒人だろうがなに人だろうが、何語を話していようが、要するに血統に関わりなく生まれた後の環境次第であらゆる言語を同等の期間(約12年間)で習得可能だというある程度確かめられた事実が、傍証になっていると思う。

あらゆる言語が同等の機能を持っていると仮定すると、たとえば日本語にある機能は英語にもあるはずだし、逆もまた然り、ということになるのだけど、これは一見して直感に反することもある。

たとえば有名な例だと、英語にはwhat, when, where, who, why, howのいわゆる5W1Hの疑問詞があるのだけれども、このうちのどれをどう使っても、「何番目ですか?」という疑問文を構成することができない。

もっと巨視的な話をすると、たとえば日本語では文中に主語が明示されないことが多いとか、あるいは逆に英語だと「情報の確からしさ」を表示する機能(日本語では「だろう、みたい」などそれらを表示する部品が多数ある)が乏しいということが言われる。

この事実は先の「言語の機能は皆同じ」仮説に反するんだろうか?

反しない、と考える。ここで確認しておきたいことは、まず表示には明示的表示と黙示的表示があるということだ。この違いは数学の方程式を使うとわかりやすい。

x = 1

この等式は、xの値を明示的に表示している。

4 = x + 3

この等式は、xの値を明示的に表示していない。しかし、xの値は1だと求めることができる。だからこれは、明示的に表示してはいないけれども、xの値を黙示的に表示していると言える。

たとえば日本語には主語がない、という事実があったとして、じゃあ日本語の文は主語を表示していないか、というとそうではない。先の方程式と同じように、与えられた情報を整理すれば、主語を導き出すことができる。

つまり、一見ある言語が別のある言語が表示している情報を表示しないように見えても、それは明示的に表示していないというだけのことであって、黙示的にはきちんと示されているというわけだ。

では、「ある情報が表示されていない」という問題ではなく、「ある表現を構成できない」という問題はどうだろう。たとえば、先に挙げた、英語では「何番目ですか?」を構成できない、という問題。

これも結局のところ数学と同じで、ある表現規則によって特定の表現が構成できないからといって、その表現規則が別の表現規則と同じ機能を有していないというわけではない。

たとえば、数学におけるtan xは常にsin x / cos xだから、もしこの記号がなかったとしても(もし数学という言語にtangent記号がなかったとしても)、同等の機能を実現することは可能だ。tan xの代わりにsin x / cos x と、少し長い表現になってしまうというだけのことである。

英語も同じで、「何番目ですか?」という表現が構成できないからといって、その表現が持つ機能を再現できないわけではない。「オバマ大統領は何番目の大統領ですか?」という代わりに「オバマ大統領の前には何人の大統領がいましたか?」などといった代替表現はいつでも可能なのだ。

だから、やはり最初の「人間の言語はどれも同じ機能を有していて、ある言語にある機能は他の言語にも必ずある」というアサンプションは、一見してある言語における特定の機能が他のある言語に見られないことがある、という事実によっては反証されていないと言えるだろう。