AnkiMobile でカードテンプレートを編集する方法

 以前はデスクトップ版を使う必要がありましたが、最近のアップデートでできるようになっています。

カードの学習画面でツールを開き、Moreをタップして、該当ボタンを探すだけです。

アルファベット順になっているので、Eを探してください。

www.youtube.com

自分がやっていることを記録し続ける試み

わりとありがちな話かな、と思います。類似のものに Doing リストとか、あと「ライフログ」なんていう概念も数年前はやりましたね。

後者は重症の人になると、動画で全てを記録しようとしたりとか、あらゆる書類を撮影したりスキャンしたりして、全て検索可能にしようとしたりとか、(まあ私も似たようなことをやっていたことがありますが、あれは病気です)する人もいます。

タイトルの話はそれほどヘビーなものではなくて、昨日からやっているのですけど、iPhoneのメモアプリのブレットリストを使って、自分がやったことをちょくちょく書き加えて行くだけです。タイトルにはその日の日付を入れます。これは入れなくても、ノート作成日でいいじゃんって話もあるんですけどね。何と無く入れています。

これの目的は何かというと、自分がどういうことに時間を使っているか、その時その時で自覚的になろう、ということです。くだらないウェブサイトを眺めたり、ツイッターNaverまとめで時間を潰したり、はてなブックマークのホットエントリを眺めたりする無為な時間を、無自覚に過ごすのではなく、その都度記録しておく。これは自律に効く気がします。

後で読み返した時に、満足感があることもありますよね。どんな重要な仕事を片付けたとか、本を読んだとか、ブログの記事を投稿したとか、そういう、ダラダラして、打製に任せているとなかなか実行できないタスクです。こういうことを書いておくと、自分に対する報酬になると思います。

どれくらい続くかわかりませんが、とりあえずいま二日目です。

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意識の数は一人ひとつとは限らない

人には意識があるとみんな信じていますよね。論理的には実は自分以外の他人に意識があるかどうかは知るすべがないのだけど、とりあえず自分には意識はあるし、他の人間も自分と同じように意識があるように見える。

もし自分以外が全て意識のないロボットだったら? なんていうのは、割と古典的で、多くの人が一度は考えたことがあるんじゃないかと思います。

ところで、自分以外の人に意識があるかどうかわからないと考えるのであれば、「自分だけに意識があり他の人にはない」と「全員自分と同じように意識がある」の二択である必要はないですよね。あの人には意識があって、この人には意識がない、というような想定も論理的には可能です。

以前友人とこんな話をしたことがあります。『自分の意識はいつも連続していて、他の人と入れ替わってしまうことはない。だから、自分が自分であることには何かの必然性があるはずだ。』

この話に対して私が思うのは『もし他の人と入れ替わってしまうことがあった場合、入れ替わりに気づくことはできるだろうか』ということです。意識が入れ替わっても、入れ替わり先の人は記憶を脳に保持している以上、結局は連続性を感じられるはずです。また、入れ替わる前の人の記憶はないので、入れ替わったということに気づくチャンスはないですね。ということは、実は入れ替わりはいつでも起こっているかもしれないのです。

同じように、ある人体から突然意識が消えたり、あるいは突然意識が宿ったりしても、本人も他人も、それに気づく方法はありません。

この話のキモは、意識はその宿る人が持つ情報にしかアクセスできないということです。記憶は肉体に保管されていて、意識自体には記憶はありません。脳という物理的な記憶媒体がないからです。いわば意識というのはコンピュータの中を走っているプロセスのようなもので、必要に応じて入出力や記憶媒体にアクセスはできるけれども、自分自身はなんの情報も保持できないし、知覚もできない。それどころか、肉体が持つ全ての情報にアクセスできるということでさえないのです。

ということは、あるプロセスが感知できないところで他のプロセスが同じコンピュータ上を走っているように、人間にも複数の意識が同時に宿っていることも、当然想定できます。

ある一人の人の中に、ふたつの意識が宿っていて、それぞれがそれぞれ自身を、その人の唯一の自意識だと感じているという状態です。他の意識が同じ人体に宿っているかどうかを知覚することはないので、この可能性はまず否定できません。

『意識があるのは自分だけなのではないか』『意識がない人もいるのではないか』どころか、あらゆる人体にはあらゆる数の意識が宿っている可能性があり、それがいつでも消えたり現れたり、あるいは他の人と入れ替わったりしている可能性があり、我々はそれを確かめることも否定することもできない、という思いつきでした。

韓国語のmおよびnの非鼻音化 (denasalization)

韓国語には鼻音mとnがありますが、これらの鼻音は頻繁に非鼻音化され、bやdのように聞こえる音になります。

国際音声記号では、これらの非鼻音化された(denasalized)mとnは、それぞれ[m͊]および[n͊]と表記されます。

発音のし始めは、通常のmおよびnと同じように、舌が口腔内の気流を塞いだ後、行き場を失った息が鼻を抜ける形になりますが、その後、舌が口腔内の気道を解放する前に、鼻腔が塞がり、dやbのように息が口腔内で破裂することになります。

日本語や英語の話者には、この音はそれぞれmとbの中間、nとdの中間のように聞こえるようです。

韓国語の話者にとっては、nと[n͊], mと[m͊] の区別はなく、違いがあることを知らないケースがほとんどのようです。

glossika.com

ケーキを平等に切り分ける方法

おはようございます。

「ケーキを平等に切り分ける方法」として、こんな方法が有名です。確か、伊藤家の食卓か何かで紹介されていたのを見た覚えがあります。初出はどこなのでしょうか?

登場人物として、お母さん、お兄ちゃん、弟を想定します。

お母さんが半分にケーキを切って適当に取り分けると、弟とお兄ちゃんのどちらかまたは両方が、「自分の取り分が少ない」 と感じて、喧嘩になる恐れがあります。

そこで、お母さんはこんな提案をします。

「お兄ちゃんがケーキを切って、弟が選びなさい」

お兄ちゃんは、自分が選ぶことができないのがわかっているので、絶対に半分になるように慎重に切ります。

弟は、お兄ちゃんがどんな風にケーキを切ろうとも、好きな方を選ぶことができるので、満足です。

これで、喧嘩がなくなりました。めでたしめでたし。

しばらく前に知人がこれを自慢げに話してきたので、この方法がかねてから嫌いだった私は反論してしまいました。

つい先日もTwitterでこれを紹介しているツイートを見つけました。

 私が知っていたバージョンとは違い、最初にじゃんけんが入りますが、それ以降は全く同じです。

 割と好意的な反応が多いです。

 やっぱ伊藤家の食卓だったんでしょうか?

これ、全然平等じゃないですよね? と思うんですけど、どうでしょう?

なぜかと言うと、そもそもケーキをちょうど半分に切り分けることは不可能なので、切る係になった方、(先の例ではお兄ちゃん)が、常に損をする仕組みになっているんです。しかも、慎重を期してケーキを半分に切る、と言う子供には容易ではない役目まで負わされています。

お兄ちゃんからしてみれば、大人であるお母さんが切ってくれた方がちょうど半分に近い分量をもらえるのですから、自分で切る意味は全くないわけです。面倒で難しいことをやらされた上に、どう転んでも損するんですから、踏んだり蹴ったりですね。

でも、お兄ちゃんは文句が言い出せません。なぜかと言うと、「ケーキを自分で切ったから」です。

「弟のケーキの方が大きい」などと文句をいえば、「ちょうど半分に切らなかったお兄ちゃんが悪い」と言われるのが目に見えていますから、言えません。

不利な立場に置かれた上に、反論まで封じられているのです。

つまり、この方法は、「平等に分ける方法」ではなく、「不利な立場に置かれた人を黙らせる方法」なわけです。

これのどこが平等でしょうか?

一応、「切るほうが不利」と指摘している人もいました。

 

代替案

 

 番外編

 

日本語の筆記体系に関する神話と真実

The myth and truth of the Japanese writing system(s) – Nihongo Topics


「日本語には三つの筆記体系がある。ひらがな、カタカナ、そして漢字だ」という説を、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。ローマ字を数に入れ、「4つの筆記体系」という人もいます。私は「三つの筆記体系をどうやって使い分けるんですか?」といったような質問を、インターネットやその他の場所で、幾度となく目にしてきました。実際には、日本語には3つの筆記体系があるわけではありません。日本語の筆記体系はただ一つであり、一つの筆記体系が3つの文字セットを活用するということにすぎません。「日本語には3つの筆記体系がある」という言葉は、ある種の真実を含んではいますが、誤解を招く言い方であることに間違いありません。

日本語は「漢字仮名交じり」と呼ばれる筆記体系において記述されます。「交じり」とは「混ぜる」ことで、「仮名」はひらがなとカタカナのことです。その名が示す通り、これはひらがな、カタカナ、及び漢字を活用する一つの筆記体系です。「混ぜる」とはどういうことかといえば、英文が大文字と小文字とアラビア数字を混ぜるのとそういないということができます。いつ大文字を、小文字を、そしてアラビア数字を使うかについては定まったルール、あるいは習慣があります。日本語が3つの異なる文字セットを用いて記述されるからといって、「日本語には3つの筆記体系がある」と表現するのは、英文が大文字と小文字とアラビア数字で記述されるため「英語には3つの筆記体系がある」というのと同じように虚偽であるといえます。

英語では、大文字は文の始まり、固有名詞の始まり、そして強調などに使用されます。アラビア数字は、one, two, three, four といった数詞を記述するもので、数が大きいときや、計算が関わる時などに用いられます。全てを小文字で記述することもできますが、それは通常の筆記方法ではなく、正書法であるとも考えられません。

同じことは日本語にもいえます。漢字は特定の目的に、ひらがなは特定の目的に、カタカナは特定の目的に使用されます。それらは習慣です。全てをひらがなで記述することもできますが、それは通常の方法ではなく、教育目的のみにおいて行われます。詳しい習慣については、英文よりも少し入り組んでいます。

まず、ある種の語は完全に漢字のみで書かれます。これらの語は「漢字語」と呼ばれます。これらの語はもともとは古代中国語からの借用語でしたが、非常に長い歴史があるために、「カタカナ語」、つまり、西洋の文化からの借用語とは区分されています。漢字は本来的には意味を表します。より正確にいえば、古代中国語から借用された形態素を表します。文脈によって、異なる発音がされることがあります。発音は古代中国語の日本語における近似音ですが、中国と日本の長い歴史のために、借用元の言語は常に同一ではありませんでした(中国語といえども、言語は常に変化し、また常にバリエーションを含むという不変の真理の例外ではありません)。それによって、一つの漢字が複数の発音を持つことになりました。

カタカナ語といえば、その名の示す通り、完全にカタカナで記述されます。カタカナとは音を表す文字セットです。単純に音、または発音を表す文字セットであるため、外国語の記述に用いられます。英語の世界で「Sake」という日本語の単語を見ると、同じ綴りの英単語と紛らわしいと思うかもしれません。このようなことは、ラテン文字が二つの機能を持っているために起こります。一つは、単に発音を表す機能、もう一つは、特定の組み合わせが特定の単語を表す機能です。カタカナは最初の役割を担当し、漢字とひらがなが残りを担当します。

ひらがなと漢字が固有語を表す時、それは特定の文字列の組み合わせの形をとります。固有語の中には、漢字1文字で表されるものもあります。1文字が意味を表すという漢字の特徴を利用したものです。例えば、「dog」を意味する「イヌ」という固有語は、「犬」と表記されます。この「犬」という漢字は、「dog」を意味します。

漢字とひらがなの組み合わせで表される単語もあります。ほとんどは、動詞と形容詞です。漢字が語幹を担当し、ひらがなが「文法部分」を担当します。例えば「run」を意味する固有語「ハシル」は「走る」と表記されます。最初の1文字が漢字で、次の1文字がひらがなです。「文法部分」が変化する時、例えば、過去形にする時、ひらがなの部分のみが変化します。「走る」の過去形は「走った」です。最初の1文字が漢字で、残りの2文字がひらがなです。最初の文字が変わっていないことに注意してください。これは、漢字の部分がこの動詞の語幹を表現しているためです。イギリス人が中国から大量の借用語を得た並行世界を想像してください。もしかしたら彼らは、"I'm running." を "I'm 走ing" と表記するかもしれません。日本語がやっているのは、こうしたことと同じです。

ひらがなだけで書かれる単語もあります。"at" や "for" などに相当する機能語や、「おはよう」や「ありがとう」などの挨拶言葉、及び、その他の少数の固有語が含まれます。挨拶表現に漢字を使いすぎるのは、第二言語話者のよくある間違いです。例えば、第二言語話者は「ありがとう」を「有難う」と、漢字2文字を使って書いてしまいがちです。これは、「そうしたければそうしても良い」という意味では、間違いとはいえませんが、一般的ではなく、あまりに多く使うと、不自然になります。

ほとんどの固有語は複数の書き方を許容します。例えば、"fun" を意味する「タノシイ」は、通常、漢字1文字とひらがな2文字で「楽しい」と、表記されますが、もし最も一般的な書き方が、気分や目的に合わないと感じるのなら、他の書き方をすることもできます。全てをひらがなで「たのしい」と書くこともできますし、あまり一般的でない漢字を使って「愉しい」と書くこともできます。この3つの表記は単に同じ単語の異なる表記方法であり、どれを選ぶかは、個人の嗜好と文学性の問題です。

日本語には3つの筆記体系があるという言われは長い間あり、なぜこれほどに広く知られているのか私にはわかりませんが、それは真実よりも虚偽を多く含んでいるといえます。

Apple の新しい無線ヘッドフォン「AirPods」のデザインが「妥当」であると言える理由

ここでいう「デザイン」は製品のハードウェアの外観形、色、柄、素材のことで、ソフトウェアや内部部品を含めた全体的なデザインの話ではありません。

先月の iPhone 7 の発表の時に同時に発表された AirPods ですが、ネット上の書き込みや周りの人の意見を聞く限り、あまりいい評価はされていないようです。

あのまるで従来の EarPods からケーブルだけ切り落としてしまったかのようなデザインは、確かに一目で「変なデザイン」という印象を与えます。

しかし、Appleの過去の製品や前作である EarPods のデザイン、またAppleが目指す無線化された世界を考え合わせると、このデザインは納得感があるものです。以下、私の考えを説明します。

そもそもAppleは、製品の外観デザインを頻繁に変更することを嫌います。MacBook Airの筐体デザインは2009年からほとんど変わっていませんし、MacBook Proは2012年からほとんど変わっていません。iPhoneは2年に一回変わりますが、iPhone 5, 5s, SE や iPhone 6, 6s, 7のように3つの製品にわたって同じデザインが用いられる例が出てきています。iPadシリーズに関しても、iPad Air, iPad Air 2, iPad Pro はほぼ同じデザインですし、iPad mini に至っては初登場の2012年から現在までほとんど変わっていません。

これは、Appleのデザインが見た目の新しさよりも、美しさを含めた使い心地の良さに資することを目的としていると考えれば、合理的であると言えます。デザインの変更にはコストが伴うので、変更を必要とするような特段の事情がなければ、同じデザインを使い続けることが望ましいからです。

デザインの変更が必要になるのは、技術の進歩に伴い「最適な」デザインが変わった場合や、人々の生活形態の変化によってその製品の利用形態に変化が生じた場合などでしょう。iPhoneのデザインがMacのそれよりも頻繁に変更されるのは、iPhoneの製品カテゴリであるスマートフォンが、Macのそれであるラップトップコンピュータよりも、技術革新のあおりを受けやすいことの影響であると考えられます。

このような観点からヘッドフォンのデザインを見てみると、ヘッドフォンのデザインの変更は頻繁には必要ではないと考えられます。ヘッドフォンの利用形態は、古くはウォークマンの時代から、ほとんど変わっていないからです。

スマートフォンタブレットなど、音楽プレーヤー以外にも用途が広がったことは一つの変化であると言えますが、ヘッドフォンの利用形態は、耳に差し込んで音を聞く、というのが基本であって、この基本的な使い方には変化は生じていません。

実際、Appleがヘッドフォンのイヤーピースのデザインを変更したのは、2012にリリースされた EarPods が最後です。それ以前の製品は Apple Earbuds と呼ばれていたもので、このデザインは初登場の2001年から2012年まで、実に11年間継続されました。

EarPods が登場したのはSiriが初めて登場した iPhone 4s (2012年) の翌年の iPhone 5 の年ですから、この時のデザイン変更はSiriの利用を見越してのことだと考えることができます。おそらくAppleは、この時点で無線ヘッドフォンの発売を見越していたのではないでしょうか。2012年には、AppleはすでにMaciPadiPhoneという3つのデバイスを使い分けるライフスタイルを提案している状態だったので、無線ヘッドフォンの登場は時間の問題だったと考えられます。EarPods は耳によくフィットする形状ですが、イヤーピースが軽い上、全体がすべすべのプラスチックに覆われていて、ケーブルの重みで滑ってしまうことがよくありました。これが無線化されると、この弱点が軽減されるでしょう。

つまり、AirPods のデザインは、すでに EarPods の時点で完成していた、Appleが考える最適なヘッドフォンのデザインなのであって、 AirPods の発売までに、そのデザインを変更する特段の事情は生じなかった、ということです。

AirPods のデザインが予想可能であった妥当なデザインである理由は、もう一つあります。それはメッセージ性です。

Appleは AirPods の発売によって、W1 チップによって制御されたスマートな無線の世界を提案しているのであって、それはAppleの一貫したデザインの方針である、 “It just works” を体現したものであるべきだと考えられます。つまり、Appleは無線かによって何か新しいものを導入したいのではなく、これまでの EarPods と同じように、簡単に、何も考えることなく今まで通り使える、ただケーブルがなくなっただけのヘッドフォンを提案したかったはずです。

そのメッセージをあえて換言すれば、「ケーブルは無くなったけど、それ以外は全て今まで通り。だから心配はない」ということです。Appleは、「ケーブルがなくなった以外は何も変わっていない」と言いたかったはずですから、「ケーブルがなくなった以外は何も変わっていない」かのようなデザインだった、と考えることができるわけです。

なお、機能面から見ても、このデザインは合理性があるものです。Siriや FaceTime を利用するためには、利用者の声をクリアに拾う必要があり、そのためにはマイクが口の方に向けて伸びていることが望ましく、棒状のデザインになることはある種必然でした。

また、重心が耳の中に近ければ近いほど振動などで外れることが少なくなるので、バッテリーやプロセッサなどの、重みを伴う部分は耳に入れる部分に格納したいという事情があると考えられます。

これを先の、口の方向に伸びた棒状のデザインと考え合わせると、耳に入れる部分が膨らんでおり、そこから細い棒が口に向かって伸びているAirPodsのデザインは、必然性があることになります。

AirPods のデザインは、見た目の新しさやかっこよさを追求するのではなく、使い心地、メッセージ性、機能性から正当化されうるものです。